耽美派の雑誌として名を馳せた『アラン』の編集長、南原さんが独立して創刊したのが『月光』。表紙は、僕(長澤)が10代のときから好きだった高畠華宵の絵を使うことを提案した。ちょうど弥生美術館ができて、華宵の絵も集めているということで「交渉」に行ったのも僕である。結果、なんと無償で毎回の表紙使用を許されてしまった次第。
1972年頃、高校生のときから「レトロ」にハマりまくっていた僕は、そうした雑誌資料もすでにたくさん集めていた。毎回、裏表紙は、僕が好き勝手に図版を探してきてデザインした。『様式の美學』という美学に関する連載も始め、ともかく『月光』では好き勝手にやらせてもらった。
昭和30年代の「人工着色」の絵はがきを収集していたので、それを裏表紙に何回か使った。ようするに自分が「飽きたら変える」路線だった。この絵はがきコレクションが四半世紀後の2009年刊行の『昭和30年代モダン観光旅行』に結実する。
10号をもって高畠華宵の表紙は終了し、その後、特集内容に合わせたデザインにし、それまでの「和」の路線から「洋風」にしたが、あまりうまくいかなかった。
昭和30年代の絵はがきの風景を背景にして、俳優の顔写真を大きくコラージュするアイディアは3回続いた。今見てもキッチュ感がよろしい。裏面は思い切り洋風に。
「BIZARRE」特集で表紙にゲオルゲ・グロッスの絵を使ったことを機に「絵画路線」へと。グロッスの絵の地の黄色は、4色の網点が見えるテクスチャーの凝ったもの。次の号からはマニエリズム絵画が多くなる。裏面はパリの50年代のロマンティックな写真を何回か続けた。
『小説月光』が発刊されることになり、表紙にはロシア・アヴァンギャルドの画家リューボフ・ポポーヴァの若き日の写真を使用。裏面はアクリルと紙で立体模型を作り、セットも作って自分で撮影した。この時期はロシア・アヴァンギャルドに一番、ハマっていた。
『小説月光』はその後、版型が小さくなり、有名人のポートレートを使う路線に。こちらは映画監督のフリッツ・ラング。次はマレーネ・ディートリッヒ、その後、李香蘭などと続いたが、現存していない。
『月光』が『月ノ光』と改題して、たぶん最初の号。アメリカの50年代のパルプ・マガジン風の表紙。次のダリを使った号が僕がデザインした最後かもしれない。ともかくこの頃から『月光』は売り上げの面でも迷走し始め、僕も別の仕事へとシフトしていった。ちなみにこの裏面はジョエル・ピーター・ウィトキン。早すぎたくらいだ。