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左からクラウディオ・コルッチのデザインによる神楽坂の〈Chika Bar〉。16世紀フランスのフォンテーヌブロー派の絵をあしらった銀座の〈アンリ・シャルパンティエ〉。
ロンドンのネオ・バロックなレストラン〈ル・トロワ・ギャルソン〉。
 バブル期の「湾岸」ブームを思い起こさせるが、一方で〈キサナドゥ〉にバブル期に青春を送った人々が集まって、さながら中高年ディスコとして盛り上がっているというのも、なんともバブリーというか、世紀末的様相ではある。日本では結婚などを機に大人が「遊び」からリタイアして、現在進行形の流行に極端に疎くなる傾向が強いが、こうした〈ビブロス〉系ディスコへの中年層の集結も「遊び」が進化していったのではなく、自身の青春への郷愁から単に「過去」を再現しようとしているだけのことだ。最新の音楽──たとえばフューチャー・ジャズやダウンテンポ系の音で大人を楽しませる空間が存在しないことは、いまだに洗練された大人の夜遊び文化が成熟していないことを示している。
 「洗練」という意味では、ここ数年流行っている「隠れ家」的レストラン/バーなどは、たしかに洗練だろうが、ここにきて「個室レストラン」ブームが、ほとんどラブホテル化している様相には呆れるほかない。ある程度の年齢層が瀟洒にそうした遊びをできる空間があってもよいが(19世紀の貴族やブルジョワのための個室レストランのように)、若年層を狙った「個室」ブームは、まさに悪い意味での頽廃としかいいようがない。世紀末的な「頽廃─デカダンス」とは文化の爛熟の果てに来るものだ。未成熟であれば、それは文化的デカダンスの美学にはほど遠く、単に倫理的頽廃に過ぎない。

3.せり上がる肉体

●へそピアスの流行
 インテリアの世界が「個室化」によって「性」が持ち込まれているように「肉体」「快楽」といった直接的記号が、最近浮上し始めているようにみえる。「癒し系」なるものが一世を風靡したが、それは残るとしても誰もがそれほど静かに落ち着いて暮らしていきたいわけではない。刺激も危険も必要ということだ。
 ここ数年、『Egg』系などのサーファー/イケイケ・ギャル層に「へそピアス」が流行っているのは、ご存知だろうか? ローライズのパンツにタンクトップという、へそ出しのファッションが、へその「重要性」を生みだしたともいえるが、ここに80年代から連綿と続く身体加工の歴史と伝播をみることができる。高校生にまで及んだこの「へそピ」の流行に眉を顰める母親が少なくないという話しが、最近新聞記事になっていたが、そもそもこの流行はアメリカ西海岸のポルノ文化から端を発したものだ。スキン・マガジン(性器もみせるようなヌード雑誌)のモデルとポルノ映画女優、彼女らが80年代からずっと身体意識を先鋭化させてきた。
 たとえばTバックのパンツの流行、これもリオデジャネイロの海岸の水着から西海岸に伝わって、そこでファッション的洗練をもった下着となって世界に伝播した。このきわどいTバックの流行によって性毛のケアが必要となる。それをやったのもポルノ系モデルや女優であって、85年頃から始まり、90年代初めには性毛をケアするのは、ヨーロッパでも常識となる。日本では90年代半ばに、主に風俗業関係とサーファー系に始まり、今では普通の女子高生でも刈り揃えているコは少なくない(若年層のほうが抵抗が少ないのだ)。ちなみにこの流行伝播の系譜をリサーチすると、ハワイに旅行した女のコがアメリカのスキン・マガジン(エロ雑誌のことをアメリカではこう呼ぶ)を購入して学んでるという事実が浮かび上がってくる。太陽の下のハワイとは別のエロティシズムのルートとしてのハワイというものが存在していることは、ほとんど誰も気づいていない。現在のマーケティング・リサーチの欠点はこうした隠れた性的なものが、公的に変化してゆく課程をリサーチできていないことであり、また、そこに「市場」の可能性があることも想像していないことだ。
 へそピアスの流行もまさに同様である。そして今では、サーファー/ギャル系だけでなく、ごく普通のファッションのコがへそピアスをしていることも珍しくはない。

●視覚的価値が決める商品価値
  「ボディ・コンシャス」という概念は80年代、ファッション・デザイナー、アズディン・アライヤの身体にフィットしたドレスで始まったが、80年代の哲学界でも「身体論」はひとつの重要なテーマだった。そんななかから「ボディ・コンシャス─身体意識」は、80年代末から90年代初めにかけて重要なテーマとなってゆく。それが単に「ボディコン」としてバブル期の女性モードと身体顕現の異様なまでのエロい方法論となったのは、日本特有の事象だった。その後のモードはこうしたエロさに村する反撥もあって、より上品にナチュラルとか癒しとかカジュアルとかが主流となったが、身体価値が減じたわけではけしてない。
 90年代初頭、アメリカで同じ程度の能力と学歴を持った男性の身長の高さの違いによって、どちらが昇進が早いか、収入が多いかの調査が行われたが、結果ははっきりと身長の高い男性のほうが有利であると出た。アメリカから日本に伝播したフィットネス・ブームもこうしたプラグマティックな現実があってのことに他ならない。もちろん、今でもそれは変わらない。戦後、ずっと増加してきたアメリカ女性の整形美容は2002年、初めて微減に転じる。そのかわりに増えたのは男性の整形美容だった。鼻の整形は前年度に比べて47%増加、シワ取りに至っては、なんと6倍の増加である。その最も多い理由はビジネスに有利であるということだった。資本主義が冷酷化するに伴い、「若さ」こそが労働価値に転じつつある。
 最近、日本でも特徴的なことは、お洒落なレストランでのマネージャーのような女性の身長の高さである。何軒かでなにげなく訊くと、やはり身長は考慮しているということだった。ある高級ホテル系のレストラン・バーでは、男は身長175センチ以上、女性は160センチ以上しか採用しないとのことだった。実際、そこでエントランスを担当している女性の身長は172センチ。モデル並みの体型である。別のレストラン・バーでもやはりエントランスの女性の身長は172センチ。
 青山の〈CITABRIA〉のように、いまだ西洋人の男女を雇って高級化(白人を使うと高級化するという思想が僕にはまったく理解できないが)を演出する店も少なくないが、これからのトレンドは日本人のゴージャスさに移ってゆくことだろう。六本木にできたシャンパン・バー〈shu!〉に女性ファッション誌『ヴァンテーヌ』のモデルが週に二日入っているのも、こうした身体の視覚的価値が商品価値となっていることの象徴といえるはずだ。

●高級ブランドの肉体戦略
 身体価値の上昇とともに浮上してきたのは、それがもたらすであろう性的快楽への想像力だ。ファッション広告の変化にそうした身体意識の変容を見ることができる。シャネルの広告の女性モデルが絶妙にエロティックに見えるようになったのは、カール・ラガーフェルドがシャネルのデザイナーに就任して購買層の大幅な若返りを図って以降のことだ。
 商品以前にモデルの存在がエロティック(より上品にはセクシーにといってもいいだろう)に見えること、それは90年代以降の重要なキータームとなった。ミラノ・モードの隆盛とともにイタリア男の、ちょっと粗野っぽいセクシーさは、広告のいたるところで見られるようになった。伊達男がキメのポーズをとる。あるいはその後ろで女が寄り添う。そうした広告ならすでに70年代から登場していた。
 しかし、たとえば最近のヴェルサーチの広告のように、浜辺に男女がいてしかも一人は全くのヌード、その前景にシャツをはだけてジャケットを着た伊達男が立つ、となると、かつての広告の構図とはだいぶ意味が違ってくる。セクシーな女が寄り添う程度なら、その広告はセクシーな(服装の)男はモテる。という意味をもつぐらいだった。だが、向こうにトップレスやヌードの女性がいるとなると、すでに「女は待っている」的な告知となる。モードに身を包んだ伊達男の写真は、その一瞬のあとの女との性的な快楽を予感させているのだ。

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