●ハイ・ファッションにおけるロシア・アヴァンギャルドの突然の復活
アートとモードの接近は、冒頭の建築とファッション・ビル、あるいは前述のコレクター話以外にも実際のモードのほうで、具体的デザインとなって現出している。それは2003年F/Wのコレクションで多くのデザイナーがロシア革命期のアートとデザインの先鋭たる「ロシア・アヴァンギャルド」の図柄を大々的に引用したことだ。
1973年前後を境として、モードの世界は過去の様式を引用するようになり、「歴史主義」に陥った、という顛末は自著『パスト・フューチュラマ』に詳しく書いた。それまでのモードは1910年代のポワレから60年代まで、常に「進歩」と「新しさ」のみを良しとし、けして過去を振り返ったことがなかった。73年以降、やれ50'sだの60'sだの、モードは常に過去の様式を多かれ少なかれ引用してきた。
ジョン・ガリアーノやヴィヴィアン・ウェストウッドなどイギリス出身のデザイナーにはとくにこの傾向が強い。ガリアーノがディオールのデザイナーになって何年かは、「50年代ハリウッド」、「30年代上海」、「革命中国」など、時間と空間のエキゾチズムのなかで、ほとんどデザインしていたといっても過言ではない。ヴィヴィアンもパリコレに本拠を移して以降、自身のパンキッシュな革新性とヴィクトリアンやエドワーディアン・スタイル、昔のスクールガール・スタイルなどとの折衷様式を発展させてきた。20世紀の様式はほとんビ引用され尽くしたと言っても過言ではなかった。
そこに1920年代の「ロシア・アヴァンギャルド」がモダニズムの新鮮さをまとって大々的に引用されたのである。逆に見れば、60'sモダニズムが幾度も引用されすぎたあと、もはやそこにしか未開拓の地はなかった、ということなのかもしれない。
1920年代ということでいえば、アール・ヌーヴォー、アール・デコ様式の復権は必至だろう。これはじつのところ1960年代から70年代にかけてのサイケデリック様式とも絡んでいる。昨年、エミリオ・プッチの突然の大ブレークが起き、彼がデザインしたブラニフ航空(80年代に倒産)のスチュワーデスの制服やスカーフなどは雑誌でも大々的に取り上げられた。じつはプッチの商標権はクリスチャン・ラクロワが持っており、彼の一種派手な柄がプッチ的世界とも交差し、そこからネオ・サイケデリック的なプッチ・デザインの復権がなされたのだ。
実際のところラクロワ・デザインによる今年のプッチは、70年代の彼の全盛期を思わせるものでありながら、アール・デコ的な装いも感じさせている。当のクリスチャン・ラクロワ自身のブランドとなると完全にアール・デコを主体にして、そこにサイケデリックと今のマイクロ・ミニなどを混ぜ合わせたスタイルとなっている。
ミッドセンチュリーのモダニズム・ブームが頂点に達した今、サイケデリックの混沌とそれに影響を与えた20世紀初頭のアール・ヌーヴォーの曲線。そしてアール・デコの瀟洒なスピード感こそ復権されるべきものだろう。アール・ヌーヴォー、アール・デコ様式の再評価は70年代後半から80年代にかけてなされたが、その後、コレクターが増えるだけでデザイン的に顧みられることは少なかった。今後、サイケデリックやアール・ヌーヴォーの曲線が再評価されるとなれば、それは新世紀がまさしく世紀末的様相を孕んで始まったことの証左となるはずだ。
5.「BOBOS」という生き方
デヴィッド・ブルックスの著書『BOBOS in Paradise:The New Upper Class and How They Got There』が書かれたのは2000年。だが、このなかには90年代後半から見えてきて、おそらく21世紀初頭の「佳き趣味」を代表するようなスタイルが描かれている。そもそも「BOBOS」とはブルジョワ(Bourgeois)とボヘミアン(Bohemian)の頭文字を取って名付けられたものだ。80年代のヤッピーのようなキンキラのひけらかしや気取り、あるいはビジネス・エリート然としたものを恰好悪いとし、もっとさりげない生活スタイルをもちながら、それでいてある程度のお金はあり、でもコンサバ(保守派)には与せず、ボヘミアンのように自由である、というのが、BOBOSの特徴といってよいだろうか。
たとえばお金に任せて何でもコレクションしたりはしない。高価なアンティークでも「使う」ためには買う。仮にお金が余っていてもブランドのために使うわけではない。自分が気に入ったもの、たとえば自分の農場のトラクターでも、そこには他人が驚くほどのお金を使う。ともかく自分の価値観が重要なのだ。
90年代、クリントン政権のもとで好景気と株高を続けてきたアメリカの30〜40代の理想的生活スタイルと、デフレとリストラに見舞われ続けてきた日本の同年代のそれを比べるわけにはいかないが、それでも不景気をいわれながらも高価なものが売れる不思議の国の日本である。だが、その消費形態をみるとBOBOSで批判されているようなヤッピー的なものに近くはないだろうか?
〈BEAMS〉のような比較的若年層が行くメンズ店の革靴の値段が3万8000円から12万円となると、いったいどの層が購買するのか不思議になる。大手広告代理店勤務か、外資系ヘッジファンド勤務か? 古びた言葉で言えば、それらヤン・エグがこうした商品をローンで買っているのか? いずれにせよ日本の消費形態は金余りの若者にせよ、ニューリッチにせよ、そう美しいとはいえないし独自のスタイルにも乏しいようにみえる。BOBOSにある「ボヘミアン」の部分、そこがこの日本では決定的に欠けているからだ。
展覧会にでも行けば、そんな状況が一日でわかるだろう。TVで大宣伝した展覧会には絵のことも何も知らないような人間が長蛇の列をつくり、絵の前で無知をさらけ出すような会話がここかしこで聞こえて辟易させられる。小粒だが、なかなか見られないような作品を扱った展覧会は閑古鳥が鳴く(たとえば2002年のドイツ表現主義展)。村上隆と彼のHiropon Factoryと奈良美智以外、誰も現代美術のアーティストの名を挙げられないような若者は沢山いるのだ。
BOBOSの条件に「教養」がある。日本の若者にいま最も欠けつつあるのが、この「教養」だろう。それゆえ、日本でBOBOS的なスタイルを望むのは無理かもしれない。だが、マーケティング的に思考すれば、日本に欠けている「層」こそ、これからの憧れのスタイルとして提示できるはずだ。BOBOSという言葉は一時の流行語で終わるかもしれない。だが、魅力に富んだこのスタイルは、提案し、商品を売る側から仕掛けていくに足るものだと思う。安物の傘を捨て、傘こそ高価なものを買い、そして展覧会にまめに足を運ぼう。そこから新世紀の魅力あるスタイルというのも見えてくるはずだ。 |