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アルフレッド・ヒッチコック,裏窓,グレース・ケリー
ヒッチコックの『裏窓』でのグレース・ケリーとケーリー・グラント。
フランソワ・トリュフォー,アメリカの夜
フランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』での窓のシーン。
フランソワ・トリュフォー,アメリカの夜
『アメリカの夜』の窓のシーン撮影現場。セットであることがわかる。
フランソワ・トリュフォー,アメリカの夜
同じく『アメリカの夜』の窓のセットそのもの。
 映画にはさまざまな小道具が使われているから、モノと映画で何か書こうと思えば、いくらでも書けそうだが、深く掘り下げたり、データを揃えようとすると案外難しかったりする。たとえば「窓」。ホラー映画での意味ありげな窓の開閉。あるいはサスペンスもので、事件のフレームとして使われる窓。それらの例をあげたらきりがない。後者についていえばヒッチコックの『裏窓』(54)が、のちの定型を作り上げてしまったといっていいだろう。窓をフレームにして人の動きがあり、事件があり、それを偶然、目撃してしまう主人公。フレームだから、そこから人物がはみ出ることもあるし、シルエットでしか見えないときもあり、観客は全貌がわからないまま惹きつけられてゆく。いわば主人公とともにもうひとつのスクリーンを観ているようなものだ。
 そうした「事件性」をもつ窓と、まったく様相の異なる窓というのも映画には存在する。たぶんそんな窓を最も愛着をもって表現したのは、フランソワ・トリュフォーだろう。
 昨年、他界したフィリップ・ド・ブロカは、トリュフォーのもとで助監督をしたあと監督になり『まぼろしの市街戦』(67)など、独特のロマンティックな作品を作り続けた監督だ。そのブロカの傑作のひとつに『ピストン野郎』(64)というのがある。冒頭、主人公はベッドから起きあがると窓を開け、エッフェル塔のほうを望遠鏡で眺める。するとそこに可憐な美女が……彼はすぐに着替えて彼女をナンパしに走り出す。
 トリュフォー作品の窓も、ちょっとこれに近い感覚だ。ようするに〈その瞬間、世界に向かって開かれた窓〉。そんなたたずまいの窓を彼は、何度も表現している。たとえば『二十歳の恋』(62)。トリュフォーの分身ともいえるアントワーヌ・ドワネルを主人公にしたシリーズ(全部で4作品ある)の2作目で『大人は判ってくれない』(59)の少年から成長し、ドワネルは恋する年齢に達している。彼がアパルトマンの小さな部屋の窓を開くシーンがある。2階か3階だろうか。トリュフォーはドワネルの背後から撮影し、パリの街の風景を捉え、再度、外側から窓辺のドワネルを撮影する。そこにバッハの管弦楽が重ねられ、観客も一挙に気分が高揚するようなシーンが現出する。このときパリは、ドワネルに向かって開かれたのだ! ひとつの小さな窓によって。
 ストーリーには、さして関係ないこんなシーンをトリュフォーは愛していたのだろう。映画が作られてゆく課程、撮影現場そのものを描いた『アメリカの夜』(73)では、窓はそれ以上に積極的に映画に関与してくる。2階の窓だけのセットが作られ、そこにジャクリーン・ビセットが立ち、向かいの建物の友人と会話する。窓のセットを前後から撮影するシーンは、この映画のなかでもことのほか美しい。ジョルジュ・ドルリューの音楽が流れ、それまで撮影されたシーンのラッシュの断片映像が重ねられてゆく。この開かれた窓は彼の映画への窓でもあったかのように。
 この作品にも何度か窓でフレーミングした印象的なシーンが出てくる。トリュフォーがセットとしての窓をわざわざ作ったのは、ひとえに彼の「窓」への愛だったと思う。そして、それは映画のフレームと同じく、彼にとって〈世界に開かれた〉窓でもあったのだ。

© Hitoshi Nagasawa 2005
初出誌『bista』vol.281 2005

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