革命直後の騒乱から多少の安定期に入った1924年。ロシアで1本のSF映画が作られる。「アエリータ」。ロシア・アヴァンギャルドがスターリンによって終息させられる前に作られたこの映画は、その舞台装置と衣裳の斬新さによって、ロシア・アヴァンギャルド高揚期の成果をSF映画史にとどめるものとなった。
装置も衣裳も、すべてが構成主義的だった。そう、のちのSF映画の装置やモードがシンプルで機能主義的であるのに対して、ここではロシア構成主義やイタリア未来派などに共通する幾何学的構成が造形の基本になっていた。
同じ頃、ドイツのデザイン学校、バウハウスではオスカー・シュレンマーが『トリアディック・バレエ』を制作し、ここでさまざまな人体造形を試みていた。それは見ようによってはSF的ということもできたかもしれない。なにしろ人体曲線にはない幾何形態を持ち込んだのだから。ともあれ1920年代というのは、アヴァンギャルドの時代だった。ピカソが『パラード』の衣裳デザインを摩天楼を摸して作ったのも20年代のこと。それはアヴァンギャルドが、ある種、未来的な指標をも含んでいた時代だった。だから『アエリータ』は構成主義的な造形をもつてSFりえたのだ。
●非装飾の美学とSF的モード
20年代は「モダニズム」の時代でもあった。ドイツ工作連盟からバウハウスへと至るデザイン運動の流れと近代建築や工場建築が、この新様式を20世紀の主流へとおしすすめていった。
ここにSF美学の基調が形成される。「モダニズム」とか「合理主義」と呼ばれる近代デザイン様式は、19世紀的な装飾を排して「形態は機能に奉仕する」(建築家アドルフ・ロース)という命題のもとに発展していく。非装飾的な機能美は「現在と未来」のための造形美学であり、装飾や工芸は「過去と伝統」の象徴ある、という20世紀の様式の分化がここから始まった。そしてSF的な造形もまさに「装飾=過去」、「非装飾=未来」という二項対立のうえに成り立っていくことになる。
簡単な話、ツルツルの曲面壁のビル群が立ち並ぶ街をボディスーツ状のシンプルなモードをまとった人々が行き交うのが、SF世界のイメージであり、ゴシック風の建物や大時代じみた大仰な衣服は、ファンジー・アドベンチャーではありえても、SFたりえないということだ。
もうひとつ、こうしたSF的造形美学を補強したものに流線型デザインの登場がある。19世紀末の英国、イルカの体型をモデルに流体力学が研究され始めたのが最初で、その後、ドイツのツェッペリン伯爵の飛行船建造に応用され、20年代以降のマシーン・デザインに多大な影響を与えたのが、流線型=ストリーム・ラインだった。レイモンド・ローウィ、ベル・ゲッデス、R・ドレイファスといったニューヨークのインダストリアル・デザイナーは、こぞってこの流線型を用いて、それこそローウィの自伝のタイトルの如く「口紅から機関車まで」デザインしていった。当時は流線型でさえあれば、それは「未来的」なデザインとなったのである。
一方でこの時には「過去と未来」をともに包含した様式「アール・デコ」があった。1925年にパリで開かれた装飾美術展での様式に象徴されるアール・デコとは、「現代(20〜30年代)のスピード感を過去の装飾美学によってデザイン化する」ことで、当時のブルジョワジーの美意識にフィットした様式だったのではないか。重要なのは、このアール・デコがフランス以上にアメリカで流行し、流線型デザインとも結びついたことだ。しかもハリウッドは、「モダーンな豪華絢爛さ」を多用する。
1936年に制作されたSF映画『来るべき世界』の装置・美術は、まにこの「ハリウッド・デコ」によってつくられたものだった。ガラスや透明プラスティックを多用してモダニズム美学をSFに仕立て上げた建築セットも素晴らしいが、とくに面白いのは衣裳で、古代ギリシヤ的ともいえる形態を人工的な素材感とシンプルなデザインにまとめあげて「未来」を演出した。これと同時に作られた『フラッシユ・ゴードン』(36)の衣裳を併せ見れば、おおよそSF的モードの指標となるべきものが、なんであったか見えてくる。それはボディラインにフィットしたシンプルな造形をもち、無機質で無装飾であることだ。さらに男女の差を意識させないデザインであれば、なおのこと「未来的」であった。
●SFとジェンダー
ジェンダーレスなモード、それはユートピア的な共和制を想起させ、さらには性欲という原初の欲望の抑制をも表徴することによって「未来」を指し示すものであった。
たとえばゴージャスなイヴニング・ドレスは、「労働」から最も遠い存在であること、それを着る女性がお金がかかる存在であること、そしてまさに「誘惑」のデザインであることによって女性「性」際立たせ、またエロティックな装置となるものだ。
もちろんこれはSF的モードとはなりない。『来るべき世界』から『禁断の惑星』(56)まで続く、登場する女の子のシンプルなミニ・スカート姿は、およそこの中間点にあるといってもいいだろう。それは未来的なシンプルさを持ちながらも女性らしさを失わないことによって、中途半端な未来を指し示している。もっとも50年代までは、それでよかったのだ。観客はSF映画にも愛らしい女の子を求めたし、現実世界では、まだガーターでストッキングを留めるという仕草も、ピンヒールの脆うさも、充分に誘惑の記号となっていたのだから。
しかし50年代から60年代の、戦後デザインにける「機能主義」や「国際様式」の浸透、そしてユースカルチャーの劇的な変化は、モードをよりシンプルでジェンダーレスな方向におし進めることになる。
マリー・クワントのミニ・スカートが、当時の女の子のハートを射止めたのは、その活動的なスタイルによってであり、けしてエロティックなモードとしてではなかった。47年にデビューしたディオールの「ニュールック」は、まだ「働かないで済む階級の女」を象徴していたが、ピエール・カルダンの「ジオメトリック・ルック」は、「活動的なOL」にアピールした。前者は細いウエストとパット入スカートでヒップを強調したが、後者は上から下まで寸胴ともいえるほどラフでシンプルだった。
60年代の女性が性的に抑制されていたというわけではない。いや、逆だ。そういったことにも男性と同等の権利を持つことによって、ことさら女性「性」をアピールする必要はなくなり、彼女たちが着たい服を着るようになっただけのこと。60年代後半に最も流通したファッション用語は「ユニ・セックス」だった。
SF映画のモードにも同様の変化は現れていた。66年の『スタートレック』が50年代のSFと違った印象を与えるのは、そこでのモード「制服」性によってではないだろうか。男女とも似たようなシンプルな制服を着ることによって、ここからはセックスの匂いが消失していたし、50年代のSF映画にはない「未来」感もかちえていた。
「制服」と「未来」とは、だからきわめて密接にイメージが交差するものではないか。『2001年宇宙の旅』(68)に出てくるスチュワーデスは、複数であることによって、その「制服」性が強調され、未来的造形を補強しているように思える。ハーディ・エイミスのデザインによるこの制服は、パンツルックであることも相まって、SF的である以上に6'sモダーンの精髄であったように思える。
●モダニズムとミニマリズム
シンプルとは何か、と考えた場合、結局のところそれは「ミニマリズム」へと収斂していってしまうのだろうか。いや、そうではない。確かにSF的モードとミニマルなモードは、一見、共通項があるように見えるかもしれない。だが、現代美術におけるミニマルをみればわかるように、そこにあるのは「単一性」「マテリアリズム」「最小単位」「反復と差違」といったようなキー・タームだ。
個人的には、なんと禁欲的な! としか思うほかないのだが、モードの世界では、ヘムート・ラングなどを筆頭にいまだにある一定の支持をかちえているようにみえる。70年代末にフランク・ステラが「雲形定規シリーズ」を発表したことによって現代美術の世界では、ミニマルは完全に過去の様式となったというのに、である。では、60年代のモダニズムやSF的モードがミニマルな傾向をもっていたか、といえば、決してそうではなかったと思う。イヴ・サンローランの「モンドリアン・ミニ」は、まさしくモンドリアンを引用したモダニズムであり、ルディ・ガーンライクの「ビニール・インサート・ドレス」も機能主義建築に通じるようなダニズム的造形であった。
米国のサーペイヤー1号の月面軟着陸に合わせて発表された、66年のカルダンの「コスモコール・ルック」。あるいはアポロ11号による人類初の月面着陸の年である68年に発表された、アンドレ・クレージュの「コスモノート・スーツ」。宇宙をモチーフにしたこれらの作品に見て取れるのはスペース・エイジによるモダニズム讃美のデザインであり、楽天的なSF性だ。
もちろん周知のように60年代後半のサイケデリック運動、ヒッピーイズムがこうしたモダニズムの楽天性を突き崩してゆくことにはなるのだが………。 ともあれモンドリアンからスペース・ルックまで、その距離感こそが60年代モダーン・スタイルの真髄ではなかったか。それは楽天的に未来を肯定できた、幸福な時代の産物としかいいようがない。
●マテリアリズムと未来
60年代モダニズムやスペース感覚のモードに特有だったのは、そのシンプルな造形とともに合成素材やプラスティックなどが多用されたことだろう。布と布の間を透明ビニールでつないで露出度を高めた「ビニール・インサート・ドレス」や、透明ビニール・ブーツで有名になったウィーン生まれのルディ・ガーンライク。あるい円形や方形の金属・プラスティックを数珠繋ぎにしたドレスで、前衛派の名を欲しいままにしたパリのパコ・ラバンヌ。
こうしたフューチャリストたちは、そのマテリアリズムによって未来を表現しようとした。人工素材には均質性と不変性という特徴があったからだ。
そう、滑らかで変化しない永遠性もSF美学の重要な要素だ。なぜかというとSFとは、実際に進行している時間を指し示さず、「未来」という名の、ある凍結した時制と空間を指しているだけだからである。だからそこには時間の浸食も、肉体の老化をイメージさせるものも存在してはなないのだ。『バーバレラ』(67)でジェーン・フォンダが身につけるプラスティックのビスチェがSF的なのも、それが均質で不変な素材であり、やがて朽ち果てる肉体への時間の侵食を阻止すべきボディ・スーツのように見えるからだ。
ラバー、PVC、エナメル、金属、プラスティックなどの素材が、SF映画の衣裳に用いられるのもこうした心理が根底にあってのこと。あるいは今シーズンのSFモードと呼ばれる服の多くがハイテク素材に負っていることも同じ理由に拠る。
ここにおいてSF的モードは、フェティッシュ・モードの領域にも通底す。さきに揚げた素材の多くは、現代のフェティッシュ・モードで使われる素材そのものなのである。たとえば54年のSF映画『火星の魔女』とフェティッシュ系デザイナー、キム・ウエストの作品を見比べて、どちらがSFでどちらがフェティシズムの世界なのか、判断に迷うところだろう。ようするにどちらも肉体に時間が侵食してくるのを防ぐための、ボディ・スーツとしてのファッションなのである。
70年代以降のモードは、つねに過去の様式を顧みてきた。しかし、かつてのSF映画にあったようなわかりやすいフューチャリズムが存在しなくなってまった現在、「未来」を志向するモードは、ハイテク素材にインスパイアされるしかないのかもしれない。でも、そうしてクリエイトされた「未来」も、何年かすればバスト・フューチャー「過ぎ去った未来」となるしかない。モードが「束の間の帝国」と呼ばれるのもそれゆえのことだ。
© Hitoshi Nagasawa 1998
初出誌『 流行通信』vol.422 1998 |