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19世紀末にモンパルナスにつくられたカフェ
〈ラパンナジール〉(訳すと韋駄天兎)。
ここに売れない芸術家らが集った。
1903年頃にモンテ・ヴェリタに移った
移住者=ボヘミアンらの珍しい写真。
イーダ・ホフマンなど初期の重要人物が
写っている。
プルーストの『失われた時を求めて』に登場する
スノビッシュなシャルリュス男爵のモデルに
されたといわれるロベール・ド・モンテスキュー
伯爵。評伝『1900年のプリンス』(国書刊行会)
はベル・エポックを生きた彼の、美に殉じた
生涯を描いて余すところない。
高級娼婦(当時の言葉でクルチザンヌという)
であった、リアーヌ・ド・プージィは、ベル・
エポックの豪奢と美を体現した女神だった。
ナタリー・バーネイのようなレスボスから詩人
コクトオまで巻き込んだエロティックなサロン
が彼女を中心に存在していた。
エティエンヌ・ド・ボーモン伯爵。
彼もまたベル・エポックの名士の一人であり、
多くの作家、芸術家らと交流した。
カスティリオーネ伯爵夫人はグラフュール伯爵
夫人、あるいはド・ボーモン伯爵夫人、そして
ノワイユ侯爵夫人ら、世紀転換期を生きた
綺羅星のごときサロン的女性のひとり。
エズラ・パウンドやジェームズ・ジョイスらが
集ったシルヴィア・ビーチの〈シェークスピア
&カンパニー〉。駆け出しの頃のヘミングウェ
イも出入りし、さながら20年代パリ在住異邦人
のサロンと化していた。
パリの1920年代から30年代にかけてカフェ
〈ジョッキー〉は、大喧噪の場所だった。
そこにはダダイストが、シュルレアリストが
集い、キキとマン・レイが恋を語った。
対立する芸術家グループの喧嘩騒ぎも
しょっちゅうだった。
1920年代ベルリンのある金持ちのところで開
かれたパーティ。ロベール・ドローネーの
「エッフェル塔」の絵やその妻ソニア・ドローネー
の絵が飾ってあるところをみると、相当の
モダニストだったことがうかがえる。
詩人にして発明家、シャルル・クロスは
蓄音機を発明したが特許出願の差でエディソンに
その名誉を奪われた。「シャンソン」と題された
美しい詩は、三島由紀夫が初期の作品
『花盛りの森』で引用している。
1920年代ベルリンは「退廃の都」だった。この
女装趣味者が集うキャバレー〈エルドラド〉の
ような場所が活況を呈したことは右翼民族主義者
らにとっては耐え難いことだったろう。
 フランスの大貴族にして赤貧洗うがごとき一生を送った作家ヴィリエ・ド・リラダン伯爵の作品を、生涯にわたって翻訳し続けた斎藤磯雄氏は、その戦前のリラダン全集刊行の辞に次のように書いた。『「愚劣」が叡智を蹂躙し、「下賎」が高貴を凌辱し、「凡庸」が偉大を磔刑に処する暗澹たる世紀にあって……』
 まさに現代とはそのようなものであれば、今更「サロン文化」在りし時代に追憶を試みても虚しいだけである。「パチンコ屋は現代のサロンである」などという論が成り立つのであれば、渋谷センター街で座り込む無知蒙昧の輩どもを指して、そこに現代のサロンがあるなどと拡大解釈することも可能になってしまうことだろう。
 もっとも西欧のかつてのサロンが、かならずしも高貴と教養を約束していたわけではない。それでも幾ばくかのダンディスム、ギャラントリー、あるいは官能性、そしてときには政治・文化的急進主義が存在し、それこそがサロンの魅力を形成していたのである。こうしたサロンの変遷に関しては、すでに幾多の書物が書かれ、フランスの「プレシューズ(衒学的才女)」たるド・ランブイエ侯爵夫人からスキュデリ嬢、ド・セヴィニエ侯爵夫人、ニノン・ド・ランクロ、デュ・デファン侯爵夫人、ルイ15世の愛妾ド・ポンパドゥール侯爵夫人……と、それこそ枚挙にいとまがないほどのサロンの女主人列伝の詳細を知ることができる。
 いずれ劣らぬ魅力的女性たちだが、先述したとおり、こうした貴族的サロン文化に今更触れたところでなんになろう。下賎が高貴を凌辱する時代なのだ。となれば、ここで取り上げるべきは、厳密な意味でのサロンではない。貴族ばかりでもない。ある集合体、それも文学的集合体に関する話である。それぞれ時代も都市もばらばらであり、主題に統一性もない。あるのはただ、ぼく自身が好きな集合体であった、というだけのことだ。

●ドイツ・ミュンヘン・「シュヴァービンガー」
 19世紀末のミュンヘンは、1920年代のワイマール文化に連なるものへの発酵の地であった。それは美術様式でいえば、「ユーゲント・シュテル」を生み、20年代ベルリン軽文化を象徴するカバレット(キャバレー)発祥の地であり、また、ベンヤミン言うところの「遊民(フラヌール)」文化へと連なるボヘミアンの溜まり場でもあった。とくにミュンヘン郊外シュヴァービング地区には、作家、芸術家、オカルティスト、革命家らが集まり、世紀末ボヘミアン文化醸成のコロニーと化していた。
 かれら「シュヴァービンガー」の中心にいたのは、芸術至上主義者にして象徴派の老詩人シュテファン・ゲオルゲで、かれのサークル「ゲオルゲ・クライス」に蝟集したのが、詩人にして古代詩研究家のカール・ヴォルフスケール、あるいは宇宙論サークル「コスミーカー」を形成した哲学者ルートヴィヒ・クラーゲス、黒魔術に凝り、ナチのシンボルとなるハーケンクロイツを古代文献のなかから発見したとも伝えられるオカルティスト、アルフレート・シューラー、アナーキストの詩人エーリッヒ・ミューザムといった面々であった。のちに過激な反ユダヤ主義者、あるいは左翼へと離散していくかれらも、当時はバッハオーフェン的な母権制を主体としたオカルティックな宇宙論に傾倒し、さらには古代ローマ風衣裳で仮装しては、「ローマの饗宴」とか「バッコス神の祭り」と題した詩の朗読と馬鹿騒ぎの集会を繰り返した。
 このシュヴァービンガーのなかで最も魅力的な存在だったのは、フランチスカ・ツー・レーヴェントローだろう。れっきとした伯爵令嬢に生まれながら貴族社会から飛び出し、ボヘミアン生活に身を投じ、父なし子を生み、売春をし(もっとも彼女はそれを楽しんでいたとも伝えられる)、投機に失敗し、偽装結婚し、さらにはいくつかの小説をものにしたこの美しき女ボヘミアンこそ、母権制論者のコスミーカーらのまさに女神であった。
 彼女がシュヴァービングに行き着いたのは24歳の若くも美しき盛り。以降、1910年までの15年にわたって、この地でクラーゲスほか幾多の恋をし、ゲオルゲ・クライスや宇宙論サークルに入り、シュヴァービンガーを象徴する存在となった。
 その破天荒な性と生も、今日ではそう驚くことではないが、第一次大戦後の「女性解放」に先立つこと10数年前のこと。しかもドイツ帝国議会の議席をもつ有数の貴族の家柄の娘が、このようなボヘミアン生活を送ることは驚異以外のなにものでもなかった。「自由に性を享受する」という一点において彼女は、同時代の進歩的女性にも影響力を持ったのである。
 のちに彼女は『ダーメ氏の手記─あるいは奇妙な市街区の出来事』というシュヴァービンガーの生態をイロニックに活写した小説を残すが、この女性の鋭さは、その独特の嗅覚によってボヘミアン生活の場をシュヴァービングからスイスのアスコナに移したことかもしれない。アスコナこそは第一次世界大戦前のボヘミアンのメッカだったのである。

●スイス・「アスコナ・コロニー」
 70年前後のヒッピーが、アムスとカトマンズをメッカとしたことを思い起こせば、当時のボヘミアンにとってのアスコナを理解できるだろうか。スイス東南端、マジョーレ湖をのぞむ寒村アスコナには、19世紀末から資本主義と工業文明に反発するボヘミアンらが集まり始める。そして1900年、この地の「モンテ・ヴェリタ」(真理の山)という山に自然療法のサナトリウムがつくられると、ここに芸術家や心理療法家らが集まり、一種のサナトリウム文化が生まれ、コロニーが形成されてゆく。それがアスコナ・コロニーであった。
 バクーニン、クロポトキン、レーニンといった革命家をはじめ、ヘルマン・ヘッセ、カフカ、D・H・ロレンスといった作家、さらにはC・G・ユング、詩人フーゴー・バル、モダン・ダンスの創始者イサドラ・ダンカンまでもが、この地に参集したのである。それは誇大な言い方をすれば20世紀文化の見取り図が、ここで描かれたようなものだった。
 革命と精神分析とダダイスムとモダン・ダンス。
 1916年、フーゴー・バルはチューリヒの「キャバレー・ヴォルテール」で、ダダイスムの狼煙をあげ、イサドラ・ダンカンは20年代ベルリンやパリで、ダンスを革新する。
 もっともそうした有名人ばかりがアスコナを特徴づけていたわけではない。1855年にスイスのリクリが始めた裸体大気療養は、この地で市民権を得て、のちにドイツへと広まり、「自由肉体文化」(フライケルバー・クルトゥーア)として「反文明」的先鋭性をもつことになる。全裸で日光浴、水浴する健康法、あるいは菜食主義こそアスコナを特徴づけるもので、ここではそれは一種の精神性を帯びた文化といえるものであった。
 レーヴェントローにアスコナを教えたのは、シュヴァービンガーの友人エーリヒ・ミューザムであった。彼は1904年にアスコナを旅し、そのボヘミアン生活をドイツに紹介するが、20年代ドイツでヌーディズムが流行ったのも、早くはこのミューザムの紹介の影響だったと思われる。もっとも彼は「菜食主義者の歌」という詩でアスコナでのサラダ食療法と全裸日光浴を相当に皮肉っている。「野菜を食うのさ、野菜を。朝も晩も……」と。

●パリ・「若きフランス派」
 パリにアスコナのようなボヘミアンたちの「場」を見いだすことは、難しいことではない。そもそもベル・エポック期以降、パリそのものがボヘミアンのためのコロニーではなかったか。19世紀末から今世紀初頭にかけて「シャ・ノワール」や「ラパン・アジル」といった文学的キャバレーがボヘミアンの溜まり場となり、あるいは「バトー・ラヴォワール」や「ラ・リューシュ」といった建物は、芸術家のコロニーとして知られるようになる。「バトー・ラヴォワール」には画家のモディリアニ、ヴァン・ドンゲンや若きピカソ、あるいはアンドレ・サルモンやマックス・ジャコブといった詩人が、一方の「ラ・リューシュ」にはシャガール、アルキペンコ、フェルナン・レジェを始め、多くの画家が住みついた。
 こうした芸術家・作家らの集合体、あるいはシュルレアリストのような運動体は第二次大戦まで続くが、そうした集合体の嚆矢ともいえるのが19世紀のロマン派であった。
 19世紀フランス文学界において、それまでの古典主義に対するロマン派の勝利として知られるひとつの事件がある。1830年の「エルナニ事件」である。若きヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』は、初期のロマン主義的作品で、そのまま上演すれば、古典主義作品に慣れ親しんできた多くの観客にやじり倒されることは、必定であった。そこでユゴーを中心に集まった若き詩人・作家らが古典派の野次に対抗して拍手喝采を送る算段をする。この野次と喝采の戦いは、ロマン派の勝利をもっておわり、以降、文学におけるロマン派時代が確定したといわれる。(のちにシュルレアリストらも同じようなことをしている)
 この「エルナニ事件」が魅力的なのは、そこに参加した詩人・作家らがきわめて若かったことだ。ユゴー自身は、すでに「セナークル」(同士の集いの意)と呼ばれる集団をつくっていたが、「エルナニ事件」に参加した詩人らは、「若きフランス派」(レ・ジューヌ・フランス)と呼ばれた。組織したジェラール・ド・ネルヴァル(思潮社より作品集が出ている)は、22歳。同じくペトリュス・ボレル(澁澤龍彦の翻訳で知られる)は、21歳。彼らに誘われたティオフル・ゴーティエ(森開社から小説集が出ている)に至っては、まだ19歳! であった。それは70年代ロックに反抗して発生したパンクのようなものだった。実際、かれらは帝政派の「フィガロ」紙によって「ブーザンゴ派」と名付けられ、共和主義の過激派集団と目されたのであった。
 後年、ネルヴァルは女優ジェニー・コロンに夢中になり、その恋に破れるや精神錯乱に落ちいり、ボレルはアルジェリアで失意と貧困のなかで死ぬ。アルベール・ベガンの書名を借りれば「ロマン的魂と夢」の末路は、哀切というほかない。

●「ヴィラン・ポンゾム」・「セルクル・ジュティック」
 三島由紀夫の十代の作品『花ざかりの森』の巻頭に引用された「シャンソン」なる詩の作者シャルル・クロスもまた、「ロマン的魂と夢」を生きた詩人だった。26歳のときクロスは一つ年下のニーナ・ド・ヴィヤール夫人のサロンに出入りするようになるが、ここには高踏派から象徴派まで多くの芸術家らがあつまった。
 このサロンに集まる詩人らで結成された文学グループが「ヴィラン・ポンゾム(破廉恥漢)」であった。詩人ランボーも参加したこの「破廉恥漢」どもから、別の文学グループ「セルクル・ジュティック」が生まれる。音頭を取ったのはクロス自身で、ランボー、ヴェルレーヌ、ジェルマン・ヌーボー、アンドレ・ジルらが参加した。
 彼らについては澁澤龍彦氏の『悪魔の文学史』に詳細が描かれており、ここでの記述の多くもそこからの引用だが、そもそも「ジュティスト」とは「ちぇっ」「くそっ」を意味する「Zut!」という俗語から来ているという。ジュティストは集会所をもち、定期的に会合を開いていたが、そこから生まれたのが彼らの寄せ書きによる記念帳『アルバム・ジュティック』である。各人がおおよそ当時は出版不可能な猥褻詩を寄せたこの寄せ書きは、ジュティストの面目躍如たるものだった。ヴェルレーヌとランボーの合作詩「尻の穴のソネット」などは、タイトルとこの二人の関係から何を意味しているか、読みとれることだろう。
 もっとも、サロン話にかこつけてここで取り上げたかったのは、シャルル・クロスについてである。堀内大學氏の訳詩集『月下の一群』にて幾つかの作品を読めるクロスの詩は、ぼくの最も愛する詩のひとつだが、かれの作品にブリジット・バルドーも愛誦したといわれる「燻製にしん」というのがある。この作品の生まれる端緒となったのは、ヴェルレーヌ家に(冒頭に取り上げた)ヴィリエ・ド・リラダンが持ってきた燻製にしんをクロスが見てのことだという。奇想天外、反文明的な幾つかの発明の物語を書いたリラダンと詩人にして発明家であり、蓄音機まで発明したクロスとのつながり……。ちなみにクロスによる蓄音機の発明はエジソンに先じていたものの、特許申請の差で負けてしまったという。

●コルクの部屋
 文学的サロンの終焉には、コルク張りの部屋に引きこもったマルセル・プルーストに登場願うしかない。『失われたときを求めて』の登場人物には、多くのモデルとなる人物がいたことで知られるが、モデルとなった貴婦人の多くは文芸サロンを主宰する女性でもあった。なかでもグレフュール伯爵夫人は、その美貌で際立っていたうえ、ロベール・ド・モンテスキュー伯爵の叔母であったことで、ここに特記すべき存在である。「最後のダンディ」あるいは「最後のサロン人士」ともいえるモンテスキュー伯については『1900年のプリンス』(国書刊行会)を一読されたい。
 またプルーストが最後に訪れたサロンが、ボーモン伯爵夫人のサロンであるが、ここではボーモン伯の写真を掲載しておいた。その屹立するステッキ姿は、僕にはベル・エポック終焉の象徴のように見えてならないのである。
 文芸サロンは、ほぼこのプルーストの時代とともに幕を閉じたといってよい。ジャン・コクトオが親しんだアンナ・ド・ノワイユ侯爵夫人のサロンなど、まだ存在するがノワイユ家の長い歴史には、また別の論稿を要することだろう。いずれにせよ、詩人やダンディが存在しえる舞台は、とうの昔に消えたのだ。今や大衆のなかに入り込むか、さもなくばコクトオが詠ったように生きるしかない。すなわち、
「愚者らの去るに任せよ。居留守を使って閉じこもれ……」(詩集『平調曲』より)

©Hitoshi Nagasawa 1994
初出誌『STUDIO VOICE』1994.10.vol.226

*本稿は『STUDIO VOICE』誌の「サロン特集」のときに依頼されて書いたものだが、サロンからボヘミアン・サークルへと変転していく19世紀から20世紀のコミュニティについては、一度もっと詳細に論じてみたいと思っている。ミュンヘン=シュヴァービング地区、そこともつながりのあったスイスのアスコナ・コロニー(モンテ・ヴェリタを中心とした)、そして貧しい芸術家らが仲間で移り住んだヴォルプスヴェーデ。この三都市をつなぐ物語が存在するはずであり、それはのちの60年代のヒッピー・コミューンへの伏流ともなったはずだからだ。ちなみにアスコナ・コロニーに関する研究は、日本ではほとんどされてなく、この稿を書いた2年後、平凡社より『真理の山-アスコナ対抗文化年代記』という翻訳書が出版された。

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