寄せては返すがごときモードの波間にあって、60年代ファッションに対するノスタルジーは、波の高低はあってもつねに続いてきた。どんなに70'sブームが盛り上がろうが、あるいはそろそろ80'sだ、とか言われながらも60'sは永遠のモダーン・エラなのだ。そんな折りポップ・カルチャー系のアート本出版社TASCHENから60年代を代表するファッション・デザイナー、ルディ・ガーンライクの作品集が出版された。ぼくの記憶違いでなければ、これは1991年にN.Y.の出版社Rizzoli(リッツォーリ)から出版されたものの版権をTASCHENが買い取って再版したものと思われる。Rizzoli版は値段も高かったが、TASCHEN版は値段も安く、これ以上の「ルディ入門書」はないといえるだろう。
ルディ・ガーンライクのつくるモードは、ともかくモダーンでシンプルでスマートだった。そのなかにSF的要素がかいまみえたり、オプ・アート的なジオメトリックがあったり、あるいはサイケな柄があったりした。それはあまりに60年代的先鋭であったため、このユース・カルチャーの沸騰するような変革の10年が過ぎると、彼の名も次第に忘れ去られてしまった。もちろん彼自身はデザイナーとして活動してはいたが、すでにそこに昔日の栄光はなく、1985年にひっそりと世を去っている。
ルディは1922年、オーストリアのウィーンで生まれた。ガーンライクはアメリカ読みに変えた姓であって、もともとはゲルンライヒが正しい。すでに10代のときにウィーンのデザイナー、ラディスラス・ツェッテルにスケッチを見せたりして、ファッションに対する深い興味を示していた。母方がユダヤ系の血を引くルディは、ヒトラーのオーストリア進駐後の1938年、母とともに故国を離れ、アメリカに移住してきた。一時、ニューヨークで織物の広告デザインをしていたが、カリフォルニアに移り、ここで水着のデザイナーとしてモード界への第一歩を踏み出す。
彼の名を世界的なものにしたのは1964に発表したモード史上初のトップレス水着だった。折しもロンドンのマリー・クワントが、モードの革命となる「ミニ・スカート」を発表した年、海を越えたアメリカからもそれ以上に「ネイキッド」に肉体を表出させるモードが生まれたわけだ。ここから60年代のリベラルさが生みだした女性の「健康美」なる概念が生まれる。それ以前には考えられなかったほどの肌の露出も、健康な肉体美の表出であると喧伝されるようになるのである。今からみて60年代の露出度が高い服がちっともエロティックではなく、モダーン・テイストに見えるのは、それゆえだ。
翌65年にはルディは、シースルーのブラジャー「ノン・ブラ」を発表、ビニール素材の応用も増えていき、ワンピースに透明ビニールをつないだ「ビニール・インサート・ドレス」や「シースルー・ミニドレス」を発表して60年代のトランスペアレンシー・ブームを先導していった。
このルディの作品集は、彼のミューズ(創造のための女神とでも訳しておこう)であり、また最高のモデルでもあったペギー・モフィットによって編集されており、収められた写真もほとんどペギーがモデルとなったものだ。ペギーもまた60年代の一時、綺羅星の如く輝いた星座のひとつだが、このところ映画のチラシで彼女を見ていた人も多いはずだ。これまた60'sものの再評価のひとつともいえるウィリアム・クラインの『ポリー・マグーお前は誰だ?』(66)のチラシでオプ・アート・モード写真のモデルの一人が彼女である。60年代のモード界を舞台にした『ポリー・マグ……』の再映は、「スウィンギン・ロンドン」のドキュメンタリー映画『TONITE! LET'S ALL MAKE LOVE IN LONDON』の上映、そしてルディ作品集の復刊とともに1999年の60'sものの最大の収穫といえるだろう。
付記:2001年にはウィリアム・クラクストンが撮った50年代から60年代にかけてのジャズ・シーンをテーマに映画『JAZZ SEEN』が公開された。ウィリアムとペギー夫妻も出演。音楽はティル・ブレナー。
© Hitoshi Nagasawa 1999
初出誌『ele-king』vol.27 1999 |