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  ここに掲載したものは2008年に刊行された『ショッキング・ピンクを生んだ女〜私はいかにして伝説のデザイナーになったか』エルザ・スキャパレリ自伝の巻末に付した「解説」の全文である。
  もともとスキャパレリが好きで資料を集めていたところ縁のあった出版社から翻訳の監修依頼を受け、翻訳文全体を見通すとともに自伝ゆえに欠落している時系列のデータなどを調べ直して解説文としたものである。再評価の遅れたデザイナーゆえ、このさほど長くはない解説文を書くにもかなりのリサーチと労力を必要とした。コレクション・テーマの年代整理や映画でのコスチューム・デザインに関しての記述は、とくに欠落していたものだ。自伝には映画の衣裳デザインに関しての記述もない。パルマー・ホワイトの本にもほとんど記載はなく、先行する研究書は存在しなかった。
  ここに全文を掲載したのは、web上でこの本に関する長文の書評があり、しかもそこでのスキャパレリの業績解説が、この労苦を要した解説文を要領よくまとめただけのものであることをあきらかにするためである。両方の文章を読めば、内容の同一性は一目瞭然だろう。
  そちらの書評では映画衣裳に関して以下のように記述されている。
「しかしスキャパレリは実はシックにも強かった。オートクチュールの刺繍をメゾン・ルサージュとともに世に送りだし、ルネ・クレールの「ムーラン・ルージュ」、マルセル・カルネの「北ホテル」、ロベール・ブレッソンの「ブローニュの森の貴婦人」といった、いまでは懐かしいフランス名作映画で、シックきわまりないコスチュームを見せてもいたのだ。」(2013/12/28現在)
  これは書評者が、解説文からデータをまとめたときに間違えたうえ、どの映画も観ずに書いていることの証左ともなっている。というのはスキャパレリが衣裳デザインをしたルネ・クレールの映画は『幽霊西へ行く』であり、『ムーラン・ルージュ』は、ジョン・ヒューストン監督の作品で、厳密にはスキャパレリの名はクレジットされていない。
  さらに「シックきわまりない」と書いているが、『北ホテル』では、アルレッティのドレスのデザインを担当し(そのため厳密にはこちらもスキャパレリはノンクレジット)、女性のドレスには使われてなかったジッパーをドレス前面を斜めに横切らせるという、シックではなくモダン、かつアヴァンギャルドなデザインを施している。38年という年代を鑑みれば、これをシックという感覚はありえないだろう。 また、「スキャパレリは1973年に亡くなった。翌年、「ヴォーグ」の名編集長だったダイアナ・ヴリーランドはすかさず“Inventive Clothes 1909-1939”をメトロポリタン美術館に展覧して、スキャパレリの作品をどどっと展示した。」と書評は書いているが、ダイアナ・ヴリーランドは、1971年に突然、『Vogue』誌編集長を解雇され、意気消沈していたところをメトロポリタン美術館衣装研究所に顧問として招かれ、そこで早速、戦前のモードを懐古する企画に取り組み始めたもので、スキャパレリの死に「すかさず」という企図はなかったし、その死の前から展覧会の準備は始まっていた。現にこの展覧会にはスキャパレリだけでなく、ポワレ、ヴィオネ、シャネルなど「1909-1939」に時代を革新したクチュリエの作品を展示しており、日本では1975年に「現代衣服の源流」展として巡回した。

  書評者は同じ文のなかで、アマンダ・リアに触れており、そちらは『サルバドール・ダリが愛した二人の女』の書評にリンクされているので、リアについての記述にも触れておく。アマンダ・リアは70年代にディスコ・クィーンとして有名になるトランスセクシュアルなアイコンだが、書評者は「1965年」「この年、アマンダはロンドンの美術学校に通う貧乏学生である」「世界中で一番短いミニスカートで歩きまわっていた」「やがてアマンダはパリに稼ぎに出る」「当時のパリでこんな奇抜なファッションをしている女の子はいなかったのである。マリー・クアントやクレージュのミニスカートが大流行するのはこのあとのことだった」と書いている。マリー・クワントのミニ・スカートは1958年頃に始まり、ロンドンのストリートでは60年代初頭にはユース・ジェネレーションのトレンドとなっており、その当時の映像も残っているから、マリー・クワントのミニ・スカートの大流行が1965年以降のことと書くのは、ファッション史に無知な人の記述としかいいようがない

  ●以下『ショッキング・ピンクを生んだ女〜私はいかにして伝説のデザイナーになったか』エルザ・スキャパレリ自伝「解説」の全文。
 エルザ・スキャパレリは1890年9月10日、ローマに生まれた。本書にも書かれているように父はオリエント学者であり、伯父のジョヴァンニ・スキャパレリは高名な天文学者、父の従兄弟のエルネスト・スキャパレリは、やはりイタリアで最も知られたエジプト学者という家系に育った。一時的にニューヨークで貧しい生活を送っているものの、エルザは恵まれた環境に育ち、またそれが彼女のまわりに多くの芸術家人脈を形成する伏流になったといえるだろう。孤児院で育ち、苦労して成功したココ・シャネルが同時代人であるスキャパレリに異様なまでのライバル心を燃やしたのも、育った環境と無関係ではない。
 本書は1954年に書かれたものだが、奇しくもそれは戦時中の対ドイツへの態度を問われてスイスに隠棲していたシャネルが、パリのオートクチュールに復帰した年でもあった。そしてこの年、スキャパレリは事業不振からメゾンをたたんでしまう。このふたりの才能溢れる女性は、最後まで因縁めいたライバルだったのである。
 メゾンとしてのシャネルは、本人が没したあとも、カール・ラガーフェルドがさらに発展させるなど、今日まで連綿と続く栄華を築きあげているのは周知のとおりである。一方のスキャパレリは、香水と小規模な小物がライセンス・ビジネスとして残ったが、かつての業績もほとんど忘れられた状態が長く続いてきた。日本でもひと昔前のファッション史の本では、ほとんど触れられてなかったりもしている。
 1974年、メトロポリタン・ミュージアムでダイアナ・ヴリーランドの企画によって、「Inventive Clothes 1909-1939」という展覧会が開催される。この時期の懐古的なファッション潮流に合わせた展覧会であり、スキャパレリの衣装も多数展示された。この展覧会を骨子に写真家のアーヴィング・ペンは1977年に「Inventive Paris Clothes 1909-1939」という写真集をダイアナ・ヴリーランドのテキストを添え刊行。1986年にはパルマー・ホワイトによる「Elsa Schiaparelli: Empress of Paris Fashion」が出版されるが、早々と絶版になり、10年後に再刊されることになる(パルコ出版から94年に訳書刊行)。ここまではあくまでファッション関係に詳しい人のための展覧会や本であり、より広範なファッション・ピープルにまでスキャパレリの名がよみがえったわけではない。
 おそらく最も広く、そして時宜を得てスキャパレリを再評価し、また世間に彼女の名を知らしめたのは、1987年に出版されたリチャード・マーティンの『Fashion And Surrealism』だろう。シュルレアリスム運動が、その全盛期からいかにファッションに影響を与え、さらに今日まで数多くのデザイナーに影響を与え続けているかを、美術作品とモード作品を並列することで具体的に検証した出色の本である。個人作品集でなく、ある文化潮流をその歴史的通時性において見直したことで、逆にファッション関係者以外にも多数の読者を獲得した本であった。
 当然、シュルレアリスムとなればスキャパレリ作品が最も多く登場することになる。トロンプルイユ(騙し絵)の手法を取り入れたデザインや、サルバドール・ダリにインスパイアされたドレスや帽子を作ったスキャパレリは、シュルレアリスム運動の同時代人であり、またこの運動に最も近しいファッション・デザイナーだった。パリのクチュリエのなかでも、その点において彼女は「特別」な存在といっていい。「前衛芸術」がこれほどまでにファッションと両立したことはなかったのだから。
『Fashion And Surrealism』では、靴のかたちを帽子にしてしまった「シュー・ハット」(37)や、ダリの、抽斗のついた裸体画にインスパイアされたポケットが抽斗のようにたくさん付いた「デスク・スーツ」(36)、ジャン・コクトーの絵をもとにした女性の顔が壺のトロンプルイユになっている「イヴニング・コート」(36)などが紹介されている。この時期は、スキャパレリとシュルレアリスム運動が最も交差した時期であった。
 ちなみにダリの絵のような背景を作り、「デスク・スーツ」の写真を撮ったのはセシル・ビートン。彼にしては珍しくシュルレアリスム風である。そして本書のカヴァーに使ったホルスト・P・ホルストによる鏡に映ったスキャパレリのポートレートもまた36年の撮影になる。ホルストは、草創期のファション・フォトグラファーのなかでもシュルレアリスムに強く影響を受けたひとりであった。
 その後、1997年に「Mémoire de la Mode」というコンパクトなデザイナー別作品集が出版され、スキャパレリも収められた。翻訳本も出たので記憶している人もいるだろう。
 そして2003年に「“Shocking!” The Art and Fashion of Elsa Schiaparelli」という決定版ともいえる豪華な作品集が出版される(すでに絶版)。ここでやっとわれわれはスキャパレリの全体像を見渡すことができるようになった。
自身でデザインした蝶結びを編み込んだトロンプルイユ・セーターを着たスキャパレリ。1927年頃。右、アーヴィング・ペンが1948年に撮ったスキャパレリのポートレート。
下左/スキャパレリのメゾンのスタッフだったベティーナ・ジョーンズをモデルにジョージ・ホイニンゲン=ヒューンが撮影した水着のシリーズ。1928年。下右/1939年のコメディア・デラルテ・コレクションで発表したコート。友人であったマン・レイの絵画にインスパイアされたもの。
右/1934年に発表した立体的造形の帽子。モデルはまだデビューしたばかりのリサ・フォンサグリーヴス。左/1949年のアイブロー・ハット。
 ここまでがスキャパレリ再評価のゆくたてだが、自伝である本書には、それぞれの出来事の年代が記されてないので、本書の理解のために大まかな年代記を記しておくことにする。
 スキャパレリが若くして詩集を出版したことが書かれているが(自伝では14歳と記されている)、これは1911年、21歳のときである。そして1914年、ロンドンで神智学者ウィリアム・ド・ケルロルと結婚する。自伝にその名前さえ記してないのは、彼女がこの結婚に相当、失望したことを示しているのだろう。歌手のガンナとキューバ旅行をしたのは、1917年のことだ。
 1920年にグリニッチ・ヴィレッジに居を移すが、スキャパレリのアーティスト人脈ができるのは、このあたりからである。画家のフランシス・ピカビアの妻、ガブリエル(通称ギャビー)・ピカビアとの知遇から、画家本人と、そして周辺のニューヨーク・ダダのアーティストとの交流が始まる。マン・レイやマルセル・デュシャンなどである。
 ちなみにゴーゴーの愛称で登場する娘の本名は、マリア・ルイーザ・イヴォンヌ・ラダで、この年に誕生している。22年には夫との離婚が成立し、パリに戻ったスキャパレリは、ギャビー・ピカビアのファッション関係の仕事を手伝ったりして、徐々にモードの世界に足を踏み入れてゆく。
 たいていの本に書かれているポール・ポワレのメゾンで、コートをもらう話は何年のことか、詳細は不明だし、どの程度、ポワレがスキャパレリにタダで服を提供したのかは、定かでない。自伝の第3章に出てくるポワレのメゾンの移転パーティは24年のことであり、この頃にはかなり親しくなっていたと思われる。
 スキャパレリは1927年に突如としてデビューしたかのように語られてきているが、実際には25年には、フリーランスのデザイナーとしてファッションの仕事を始めていた。そして27年、ウニベルシテ通り20番地に小さなブティックを開設し「ディスプレイNo.1」というコレクションで、デビューする。アルメニア人のセーターからヒントを得たトロンプルイユのセーターでの衝撃的なデビューだった。胸元にスカーフや蝶ネクタイの絵柄をそのまま織り込んでしまったもの。しかし、それだけでなく当時のモダン・アートの絵画のような幾何学的模様のセーターも発表しており、単に奇をてらっただけのコレクションではなかった。
 ちなみにファッション・フォトグラファーの先駆けともいえるジョージ・ホイニンゲン=ヒューンは、このコレクションの作品をスタッフのベッティーナ・ジョーンズに着せた写真を撮り、翌28年の『ヴォーグ』誌に掲載している。ヒューンの代表作の1枚でもある。この28年の1月31日にド・ラ・ペ通り4番地に引っ越す。チャールズ・カーンというビジネス・パートナーのバックボーンがあって、資金を調達できてのことだ。
 ド・ラ・ペ通りに女性飛行家アメリア・イアハートが、よく来ていた話がでてくるが、新奇なものが好きなスキャパレリは、ちょうどオールメタルでできたボーイング247が就航したのにインスパイアされ、34年には「エアロプレーン」シルエットを発表している。自伝ではそのあとにキュロット・スカートの話が出てくるが、スキャパレリが最初にキュロット・スカートを作ったのは31年のことであり、自身も愛用していた。ちなみにスキャパレリの新奇なものへの関心はセロファン素材を使ったり、35年のファスナーをたくさん縫いつけたドレスなどからも窺える。第5章に出てくる新聞をプリントした生地も35年のコレクションで生まれた。
 1930年代のスキャパレリの作品は、オートクチュールの刺繍専門の〈メゾン・ルサージュ〉との関係なくして語れない。景気の悪化とファッションの簡便化によって、経営危機に陥っていたルサージュにスキャパレリが仕事を依頼したのは34年のことである。以来、54年までお互いの信頼関係に基づいた素晴らしい作品の数々が作られる。37年に旧知のジャン・コクトーにデッサンを依頼し、ルサージュがその絵柄を刺繍したふたつの作品など、スキャパレリの代表作の多くにルサージュは関わっている。そしてルサージュの今日の繁栄もスキャパレリに因るところが大きい。スキャパレリはそれぞれのコレクションにテーマを設けた最初のクチュリエのひとりだが、他のクチュリエは、デザインが出来てからルサージュに刺繍を頼んだ。しかし、スキャパレリはテーマを最初に告げ、そこから両者で細部を練っていったという。彼女にとっては、なによりもテーマとそこから浮かび上がるイメージが重要であった。
 先に書いたように、この36年から翌年にかけては、スキャパレリがシュルレアリスムに最も近づく時期だが、同時に古典回帰へ向かう時期でもあった。ルサージュの刺繍を得て、ドレスはますます豪華絢爛たる様相を見せてゆく。前衛美術家のあいだでもキリコやピカビアのように古典回帰が目立ち始めた時期であった。
 前年の1935年1月にメゾンは、ヴァンドーム広場21番地に引っ越しているが、この時期から第二次世界大戦が始まるまでが、スキャパレリの黄金時代といってよいだろう。38年には「モダーン・コメディ」と題して「コメディア・デラルテ」を現代的に解釈したコケティッシュで魅惑的なコレクションを発表し(これはやはりシュルレアリスムに影響を受けた写真家、アーウィン・ブリューメンフェルドが写真を残している)、翌39年にはバッスル(19世紀末に流行したお尻を盛り上がらせる腰当てのこと)回帰のエレガントなコレクションを打ち出した。
 そして第二次世界大戦勃発。
 1940年、スキャパレリはアメリカ講演旅行に出かける。第11章に描かれているが、ミネソタでの講演のときの写真が残っており、信じがたいほどの多くの聴衆が、たったひとり演壇に立つ女性の話に聞き入っている光景は圧巻である。そして41年から45年まで、ドイツ占領下のパリを逃れてアメリカで生活する。その間、パリのメゾンを守ったのはハイドン伯爵夫人であり、スキャパレリがデザインから離れているあいだも、彼女のデザイン意図を汲むような作品を出し続け、メゾンを維持した。
1938年の『Vogue』に発表されたコメディア・デラルテ・コレクションのためにアーウィン・ブリューメンフェルドが撮影した写真。モデルは左がマス、右がリラ・ツェレンスキー。
マレーネ・ディートリヒも1930年代には何着かの服をスキャパレリで作っていた。これはドレスの両肩に雄鶏の羽根飾りが付けられたイヴニング・ドレス。
左/ルサージュによる刺繍が豪華なイヴニング・ドレス。サルヴァドール・ダリ夫人のガラが、これを着た写真が残っている。右/1938-39年のコレクションで発表されたドレス。土星、彗星、ゾディアック(十二宮)などが刺繍もまたルサージュによる見事な職人技だった。
ルイ15世をテーマにした1937-39年冬のコレクションでのヴェルヴェットに金糸の刺繍をしたケープ。こちらもレディ・メンドゥルが着たことで知られる。
香水「ショッキング」の広告。ハリウッド女優のメイ・ウェストの人型をスキャパレリは持っており、そこからイメージされたもの。スキャパレリがこの香水のボックスの派手なピンクを使ったことで、「ショッキング・ピンク」という言葉が、派手なピンクを表すものとして定着した。1936年発売。
 スキャパレリのあまり知られざる側面として、多くの舞台、映画の衣裳デザインをしたことがあげられる。31年のイギリス作品を皮切りに、53年の「ムーラン・ルージュ」まで、32本の映画のコスチュームを担当した。舞台のほうも30作品に上る。日本でもよく知られた映画では、ルネ・クレールの「幽霊西へ行く」(36)、マルセル・カルネの「北ホテル」(38)、ロベール・ブレッソンの「ブローニュの森の貴婦人たち」(45)などがある。これらの作業もこれから再評価されるべきだろう。
 最後に香水について触れておこう。ハリウッド女優メイ・ウェストの体型から生まれた有名な〈ショッキング〉は36年の発売。そのボトルはのちにジャン・ポール=ゴルチエが模倣している。ボックスケースの色はまさにショッキング・ピンクであった。親しくしていたダリがボトルのデザインをした〈ル・ロワ・ソレイユ〉は46年に発売されている。香水ビジネスはこのメゾンに多大な利益をもたらしたし、またヴィンテージの〈ショッキング〉などは、現在、オークションでも人気商品となっている。
 戦後、パリに戻ったスキャパレリであるが、47年にはクリスチャン・ディオールが〈ニュールック〉で、大々的に脚光を浴びる。歴史の歯車がひとつ回転し、モードの次の世代が登場していた。戦前の栄光は取り戻すべくもなく、54年にメゾン閉鎖、引退の道を選ぶことになる。それから約20年後の1973年、83歳で睡眠中に亡くなった。
 本書には、スキャパレリの交友関係の広さ、あるいは彼女自身の教養もあって、膨大な数の人名、地名が登場する。もちろん原著にはいっさいの注釈はない。どこまで注釈を入れるかは、相当に迷ったが、煩瑣になるのでハリウッド女優やあまりに有名な人物に関しては、注釈を避けた。文章を理解するうえでの最低限の注釈は入れることにし、それも短く書けるものは本文中に括弧で記し、それ以外は番号をふって、欄外に記すことにした。その区別は監修者の恣意的な判断だが、できるかぎり読みやすさを考慮したつもりである。それとともに注釈を読むことで、20世紀文化史が概観できること、第二次世界大戦前の社交界の雰囲気が伝わるように心がけた。
 スキャパレリの記述には人名、地名のスペルの間違いが多く、これは翻訳の赤塚きょう子さんをはじめとするチームが丹念にリサーチしてくれた。監修者自身もむろん、リサーチし、できる限り正しい記述を心がけた。訳文に関しては翻訳原稿をもとに長澤が逐次、原著にあたり文体を整え、最終稿とした。
 ページ数の都合から、どうしても部分的に削除せざるをえず、そこは版元の了承のもとに冗長な部分は割愛した。原著には章タイトルはないが、読みやすさを考え、内容にあわせてタイトルを入れた。
 約半世紀前の著作であり、現在からみると若干違和感のある記述もあるが、この時代からみた現実、世界観と思って読んでいただければと思う。V&A Publicationsからの再刊は2007年のことであり、本書の前にブルース・インターアクションズから刊行されたバーバラ・フラニッキの自伝と同時期に復刊されたわけである。このタイミングでの復刊に、今の美意識のありようを感じ取っていただけるのではないかと思っている。

書評で掲載されている図版には左の画像のように「ランバンによるファッション画(1922)」と解説が付されたものがあるが、まったくのデタラメなので、ここに筆者所有の当時のオリジナル本からを撮影したものを下に掲載しておく。『雨が降り続いている』というタイトルで、パキャン、ランバン、ダィエによるドレスとパキャンによるオーバーコートのデザインを描いたもので、現物は1915年の『ガゼット・デュ・ボン・トン』誌に掲載されたものであるから「1922」という表記も完全に間違いである。原資料に当たらず、スタッフがネット上から安易に図版を落としてきて構成したと推測するが、こういう誤った事実を検証せずにネット上で広めてゆく姿勢そのものが、批判されるべきものだと思う。


(C) Hitoshi Nagasawa 2008
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