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ルディ・ガーンライク,Rudi Gernleich
マリー・クワントが夫であり経営にも参画した
アレクサンダー・プランケット・グリーンと
スケッチを見ながら相談しているところ。
ルディ・ガーンライク,Rudi Gernleich
1966年のカーナビー・ストリート。
通りにはジョン・スティーヴンのショップが
ずらりとたち並んでいる。
ルディ・ガーンライク,Rudi Gernleich
カーナビー・ストリートの
自分の店に立つジョン・スティーヴン。
ルディ・ガーンライク,Rudi Gernleich,カイリー・ミノーグ
1966年〈BIBA〉の引っ越しは
歌手のシーラ・ブラックが先頭に立って、
センセーショナルなイベントとなった。
ルディ・ガーンライク,Rudi Gernleich,ペギー・モフィット
ニューヨークにオープンした〈BIBA〉のディスプレイ。
アールヌーヴォー風のロゴに注目!
ナイジェル・ウェイマスの
〈グラニー・テイクス・ア・トリップ〉
アントワープ派第二世代ともいえる
パトリック・ド・ミュンクの作品。
とびきりの美女パム・ホッグ。
クラブ・ファッションのクィーンだった。
フェティッシュ・モードのデザイナー、
キム・ウェストのカタログから。
 モードの歴史が生みだしたいくつもの星々の、どれもがいつまでも輝き続けるわけではない。ブランド名が生き残ったとしても、創業デザイナーの「志」を受け継いでいるわけではないことは、モード界の企業買収、再編によって、二大企業に寡占化されつつある80年代以降の様相からも想像できるだろう。所詮、流行とはジル・リポヴェツキーが自身のモード論の表題に付けた如く「束の間(エフェメラ)の帝国」なのだ。
 近代の最初の「帝国」をつくりあげたのは、1900年代から1910年代にかけて全盛を誇ったポール・ポワレだ。そのあとに女性服を革新したガブリエル“ココ”シャネルが続く。戦後にはクリスチャン・ディオールが彗星の如く現れ、そこからイヴ・サンローランが巣立つ。しかしこのような大成功を収めた「帝国」とは別に、才能がありながら、それほどの「帝国」を築けなかったデザイナー、あるいは一瞬の沫と消えてしまったデザイナーが、書かれざるモード史の余白を埋めていることを忘れるわけにはいかない。

●エルザ・スキャパレリ
シャネルと同時代に活躍し、やはり女性モードの変革に大きな力を発揮したエルザ・スキャパレリは30年代に成功を遂げたが、第二次世界大戦後、十年あまりで引退してしまう。それゆえかモード史に割かれるスキャパレリの記述は、せいぜい数行だ。しかし1927年、スポーツ・ファッション(女性のスポーツ・ファッションなど確立していない時代に!)をテーマにデビューしてから、さまざまなアートと共振してゆくそのモードは、「モード界のシュルレアリスト」といわれるほど斬新なものだった。
 詩人ジャン・コクトオとの交友からはコクトオの描いた顔の絵を刺繍したイブニング・ケープが生まれ 、シュルレアリストのサルバドール・ダリがよくモチーフにしたロブスターは、そのままスキャパレリのドレスに大きく描かれることになる。とくにダリとの芸術的親交は深く、靴を帽子にデザインした「Shoe Hat」や、ダリの抽斗状の人体画をモチーフに抽斗のような大きなポケットが付いた「Desk Suit」など、奇抜ながら洗練された絶妙なモードを生みだしていった。
 スキャパレリがアートをモードに取り込んで少々エキセントリックだった、と考えるならそれは間違いだ。1930年代に大流行する女性の身体にぴったりとフィットするドレスを最初に打ち出したのは彼女であり、それがためポール・ポワレの寸胴なギャルソンヌ・スタイルは、終焉を余儀なくされる。洗練のなかに芸術を取り込んだスキャパレリは、その芸術性によって60年代の機能主義モード全盛のなかで忘却の憂き目にあうことになる。

●ユース・カルチャーの発信
 1947年のディオールのデビューは革命的と言ってよいものだったが、第二次世界大戦後の大きな特徴は、クチュール的な世界からは逸脱したストリートのトライブが発生したことだろう。パリのザズー、ロンドンのテッズ……今日から見れば当たり前に思えるストリートからの発信も当時は、まだ胚胎期だった。ユース・カルチャーがある一定の層を形成してゆくにつれ必要としたのは、ディオールなどの「大人」の世界とは別の、彼らのためのデザイナーだった。
 1955年、ロンドンのキングス・ロードに〈BAZAAR〉という名の小さなショップがオープンする。まだ21歳の若きオーナーは自分の手で作った洋服でこの店を成功させ、57年には2号店をオープンするまでになる。
 彼女の名はマリー・クワント。60年代の「チェルシー・ガール」を世界に知らしめる存在になったデザイナーだ。クワントがミニ・スカートを創出したのは1959年、60年と諸説があって定かではない。確かなことは彼女が若者のためのデザイナーとして新たな市場とスタイルを切り拓いたことだ。65年、パリのプレタポルテでクレージュがミニ・スカートを発表して世界中を席巻するスタイルも、すでに5年ほど前からロンドンのストリートに存在していたわけである。
 同時期、メンズ・モードの世界でも同様のことが始まっていた。店員からたたき上げたジョン・スティーヴンは57年、最初の店をオープンさせ、折りからのモッズ・ムーヴメントに乗って、若年層にも買えるロー・プライスな服を揃えて大成功を収める。63年頃にはショップ〈His Clothes〉をカーナビー・ストリートに移転し、当時この界隈で目立ち始めていたゲイを意識したモードへと転換し始める。フリルのついたシャツや派手な色のパンツやジャケットなどを売り出し、60年代半ばから始まる「ピーコック・レヴォリューション」の牽引役を果たしたのである。66年当時カーナビー・ストリートにはスティーヴンの経営するショップが9件もあり、「ピーコック・アレー」と呼ばれたくらいだから相当な成功だったわけだ。
 ピーコック/サイケデリックへとロンドンとアメリカ西海岸で形成されてゆくムーヴメントは、さまざまな変革者を生みだした。そのなかのひとりがロンドンのナイジェル・ウェイマウスだ。古着と少々のオリジナル商品で〈Granny Takes a Trip〉を66年にオープンさせた彼は、ピーコックからサイケデリック、そして中世趣味の混淆まで、ロンドンの流行をまさに体現した人物だった。奇妙な店名が彼のLSD体験に由来するものであることは容易に想像がつくだろう。ウェイマウスは服をデザインするだけではなく自作、他作のサイケデリック・ポスターを販売する〈Hapshash & the Colored Coat〉を設立する。ウィリアム・モリスの植物文様をポップアートと融合させ、アール・ヌーヴォー再評価への道を切り拓いたという点でも彼の存在は大きかった。
 マリー・クワントはモダーンズ=MODSの女のコのスタイルを作ったが、そのモダーン・スタイルから始まり、ネオ・クラシシズムへの変容を担ったのは、今や伝説的ともいえるショップ〈BIBA〉を64年に作ったバーバラ・フラニッキだ。60年代後半、ロンドンの女のコの熱狂は、ほとんど〈BIBA〉に集中していたといってもいい。その熱狂のさなかの67年、フラニッキはネオ・クラシシズム=クラシカル・エレガンス路線への転向を宣言する。ウェイマウス同様、アール・ヌーヴォーや世紀末象徴派などへの親近感を表明し、60年代末のロンドン・ファッションをリードした彼女は73年にはケンジントンのビルに引っ越し、ショップ面積を大幅に拡大する。その数年後に倒産の憂き目にあうことなど、この頃は誰にも想像できなかった。
 ロンドンのユース・カルチャーとも、パリのモード・ビジネスとも土俵を異にしながら、60年代モダニズムの極北を目指したデザイナーのことも触れておかなければならない。ウィーン出身の16歳の少年ルディ・ゲルンライヒは38年、ナチの圧政から逃れたユダヤ難民として母とともにカリフォルニアに移住する。のちにルディ・ガーンライクとして世に知られるようになるデザイナーの出発点はこの政治難民という境遇だった。
 50年代にスタジオを構え『ハーパース・バザー』などの雑誌で頭角を現したルディを一躍、有名にしたのは67年に発表した胸を丸出しにした「Topless Swimsuit」と、68年の透明プラスティックを胸元にデザインした「Vinyl Insert Dress」シリーズだった。胸を十字にシースルーにさせたモダニズムの結晶たるこのドレスは、昨年、日本のマンションメーカーでリプロダクトされたし、SF的造型のサンバイザーは、カイリー・ミノーグのプロモーション・ビデオで使われたので、ここ数年はルディ再発見の時期だったといってよいだろう。
 今、彼の作品集を見るとモダニズムの極を示しながら、エスニックな要素など、多様な才能の奔出を見いだすことができる。「Vinyl Insert」ばかりが注目されたために、モダニズムの終焉とともに彼も忘れ去られてしまった。ちなみに日本では「ガーンライヒ」の表記が散見するが、アメリカではガーンライクが一般的だ。『シカゴ・トリビューン』紙の記者が、そう訪ねたところ秘書は「ガーンリック」が正しいと答えたそうだ。果たして冗談か、本気か?

●クラブ・カルチャーからのモード
 70年代以降のFashion Outsiderは、何といってもヴィヴィアンとマルコムのコンビによって語られるべきだが、あいにくヴィヴィアンがパリ・コレで大御所になってしまったために、この席に列すことはできない。ヒッピーの幻覚の神殿のようなザンドラ・ローズからニュー・ロマンティクの幻影スティーヴン・リナート、あるいはニュービートの徒花リファート・オズベクまで、それぞれが消えゆく夢を紡いだ。
 そもそもヒッピー文化以降、ハイ・ファッションがユース・カルチャーのなかで優位に立ったことはなかったし、パンクの出現は、それこそ従来のファッション・システムを破壊することでしかなかった。ニューウェイヴの終焉と86年頃から始まるアシッド・ムーヴメントによって、モードはクラブから新たな生命を得ることになる。85年から顕著になるヒップホップ隆盛によるスポーツ・ファッションの流行は、それをモードの世界にまで押し上げることになった。
 80年代末、ロンドンのニック・コールマンは、サイドにラインの入ったミニスカート、あるいは肩から腕にかけてラインを入れたデザインで急浮上する。これとてアディダスのラインもののビンテージ人気を受けてのデザイン化だが、それでも洗練されたスポーティさは瞠目に値するものだった。当時、ゴルチエもラインものを出し始めたが、ストリートの匂いで勝っていたのはニック・コールマンのほうだった。92年頃まで『FACE』誌に広告を打っていた彼の名を聞かなくなってすでに久しい。
 同時期、ロンドンを華々しく彩ったのは、クラブ系からフェッティッシュ系、さらにはスクール・ガールまでをモチーフにしたプラチナ・ヘアの美女、パム・ホッグだ。LYCRAといった伸縮自在の新素材のボディスーツ、エナメルで身体のラインを区切ってゆくようなボンデージ・ファッション、あるいはターターン・チェックのPUNK風から、ストライプのスクール・ジャケットまで……彼女が、ヴィヴィアンやガリアーノと入れ替わった人生を送ってもおかしくないレベルの作品を作り続けた。ショーのタイトルの一覧を写真に添えよう。韻を踏んだユーモアと才気に溢れたタイトル……。
 僕は1991年、ロンドンで二週間も待って彼女にインタビューした。それほどのファンでもあった。その数年後、突如パムはファッション業界から身を退いてしまう。その後の消息は杳として知れない。
 この90年前後のクラブ黄金期にアンダーグラウンドから表舞台に飛び出したのが、フェティッシュ・ファッションという性的衣裳のジャンルだ。ロンドンから『SKIN TWO』、ドイツからは『<<O>>』と、それぞれフェティシズムというアンダーグラウンドな性をファッショナブルに見せる画期的な雑誌が発行された。それとともに性的な衣裳とクラブ・ファッションはハイブリッド化され、性的衣裳の側のデザイナーがオーバーグラウンド化してくる。ロンドンのクリスティナ・キッシスもキム・ウェストもカメラマンの質にこだわり、このうえなく美しいカタログを制作した。マレー&バーンのサイドライン入りのPVCスカートなど、今見てもそのスポーティな美しさに感嘆せざるをえない。
 セクシュアルな嵐は日本のボディコン・ブームや92年のドルチェ&ガッパーナのコレクションまで、この時期の特徴だが、その正反対の方向を作っていたのは、アントワープ一派だ。今日、アントワープ6として知られるデザイナーはアントワープ王立美術学院卒業生による1986年の展示会によって知られるようになったものだが、その後のベルギー・ニュービート・シーンの活気とともにアントワープ第二世代があったことも忘れてはならない。88年、パトリック・ド・ミュンク、ペーター・ヴァンデ・ヴェルデらは見たこともない奇想的造型によってデビューした。奇抜だが美しさと造形美に満ちた彼らが、その後のアントワープ世代のように有名にならなかったことは、不思議としかいいようがない。
 運命は、つねに「才能」に対し微笑んでくれるわけではない。微笑みを得られなかった「才能」も美の女神の忠実な従者だった。そのことを、われわれは憶えておくべきだろう。

© Hitoshi Nagasawa 2002
初出誌『STUDIO VOICE』vol.322 2002

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