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南青山に作られた〈A BATHING APE〉のお店。
全体に透明感が顕著だ。
Tシャツを専門に扱う〈BEAMS T〉。
ショーケースの中をTシャツが回転する。
中目黒にある〈General Research〉も
ガラスケースのなかにTシャツがある。
すりガラスで覆われ、一部しか覗けない
NIKEのコンセプト・ショップ。
NIKEのコンセプト・ショップに
にディスプレーされたスニーカー。
『メイトメア・ビフォア・クリスマス』の
ブリスターパックとフィギュア。
『スターウォーズ』の
ブリスターパックとフィギュア。
片山正通設計、エイプが経営する
〈Foot Soldier〉。
ウィンドウのシール写真が皮膜感を
出している代官山の〈AT〉。
1枚、1万数千円もするTシャツの限定販売に早朝から行列ができる……いや、「大人」が知っているアルマーニのTシャツではない。いわゆる「裏原宿」系などと呼ばれる一見、小さなブランドでの出来事である。それが90年代末のウラハラ狂想曲だった。DJとして世に出た藤原ヒロシは、ブームの先導者としてカリスマとなり、〈A BATHING APE〉ブランドのNIGOは、年収5億を超える大富豪となり、「Under Cover」の高橋盾は世界的なデザイナーへと成長した。ITバブルとは別のビッグビジネスが、小さなストリートから泡立っていった。
 ところでTシャツを安くてカジュアルな衣服であると頑固に信じているとすれば、それを改める必要がある。いくらイヤでも現実はそうなのだ。南青山にある〈A BATHING APE〉では、Tシャツはアクリル板に挟まれて、まるでポスターのようにそれを「眺める」ことができる。ビームスが最近オープンした〈BEAMS T〉では、ガラスのショーウィンドウのなかにぶら下げられたTシャツが回っているのを、やはり「眺める」ことができる。Tシャツとは今や、かくも「うやうやしき」存在なのだ。
 ようは素材や原価の問題ではない。ブランドと希少価値、すなわち昨今、意味をはき違えて流行った言葉で、「カリスマ」性がそのヴァリューを決めているといってもよい。そしてTシャツそのもののヴァリュー・アップとともにディスプレーも変化しつつあるというわけだ。こうした最近のディスプレーに共通した感覚として浮かび上がってくるひとつのイメージがある。それは「パッケージ感」ということだ。


●パッケージで神話化される商品
 順を追って説明していこう。ほんの数年前まで、そう20世紀が終わる頃までは、Tシャツはただハンガーにぶら下げられて売られているのが当たり前だった。それは折り畳まれてショップの袋に入れられた。この当たり前の世界にテクノロジーが入り込む。これは僕自身もグラフィックで携わった仕事だったが、イギリスのクラブ・ミュージック系レーベル〈MO'WAX〉の日本盤リリースに合わせてクラブ・イベントが開かれた。パーティ客に配られたノベルティは、ピストルのカタチに圧縮された布。その布をほぐしていくと、なんと〈A BATHING APE〉のTシャツだったのである。1997年のことだった。Tシャツ崇拝とそれを見せるギミックは、この頃から加速していったように思う。
 ピストルというカタチへの圧縮というアイデアは、パッケージ化への欲望から生まれたものだったと思う。そしてここに符合するようなひとつの事実がある。それは〈A BATHING APE〉のNIGOが、「スター・ウォーズ」や「猿の惑星」のフィギュアなどのコレクターでもあったことだ。しかも1990年代後半、海外からのフィギュアの輸入が急増し、ウラハラジュク系のブームとともにフィギュア収集も異常なまでのブームとなった。米国製のそれらは、ブリスター・パックと呼ばれる厚紙と透明プラスティックでパッケージされていた。フィギュア本体だけでなく、こうしてパックされた世界そのものが愛されるようになってゆく。かくしてアパートの自室の壁を、さながら雑貨屋であるかのようにブリスター・パックで埋め尽くす若者が続出することになる。
 もちろん彼/彼女らは、そのパッケージを開けたりはしない。フィギュアという「本体」への愛が、それを封じ込め、汚れにも埃にもさらされないようにするパッケージそのものへの愛へと位相をずらしていったのだ。
 本来、手でいじれるはずのフィギュアが、あるいは最もカジュアルな衣服であったはずのTシャツが、パッケージ化され封じ込められた世界へと移行してしまう。それは20世紀末にカリスマという言葉が(その意味よりも単語として)神話化されたのと同様に若者のなかで「神話化されていった商品」だからということなのかももしれない。
 もうひとつの重要なカジュアルアイテム、スニーカーにもこのパッケージ化現象は現れている。NIKEのコンセプト・ショップ〈AD21〉では、ドーム状の透明アクリルのなかに最新のスニーカーが展示され、代官山の〈Foot Soldier〉では、アクリルに囲まれたベルト・コンベヤーの上をスニーカーが回っている。もちろんどちらも手に取ることはできない。使われる前のそれこそオブジェとしての美しさを堪能するかのように、そこに存在しているだけである。
 そもそも〈A BATHING APE〉〈BEAMS T〉〈Foot Soldier〉は、どれもインテリア・デザイナー、片山正通の手になるものだから似て当然といえば、当然なのだが。


●“皮膜”の清潔で軽やかな流動感
 パッケージとは商品を包み込み、形態を定めるとともに、ある膜で覆うということでもある。昔、三越のバラの柄の包装紙が、それだけで商品を特化させたように、この1枚の膜は商品のイメージを拡散させない作用をもつ。すなわちそれは、額に入れられてない絵は価値が定まってないかのように見え、額に納まった絵はその「縁取り」により、価値という骨格を与えられたように見えるのと同じことだ。
 1990年代前半くらいからこうした「皮膜」の存在が顕在化していったように思う。建築やインテリアなどでいえば壁や柱の重量感を取り払ったうえで、なおかつ形態を拡散させないものとして。〈Comme de Garcon〉の外観の皮膜感もそのひとつだし、妹島和世設計の〈hh style.com〉のガラス面も同様のものだ。〈AD21〉のすりガラスの不透明部分と透明部分のギミックなど、この皮膜感を利用した最たるものといえるだろう。こうした皮膜感は、この連載でもすでに書いたデザインや美術での「スーパーフラット」という事象、あるいは「ライト・アーキテクチャー」の流行と同じ地平で進行していったものだ。それらの共通項といえば、「皮膜がもたらす清潔で軽やかな流動感」。
 そう、これこそが21世紀初頭のキーワードと言ってもいいだろう。浮遊するTシャツ、皮膜の向こう側で流れてゆくスニーカー、それらもまた、ライトで浮遊感のある建築やミニマルでフラットなグラフィック・デザインなどと同様に、このキーワードのなかを経巡っている商品世界なのである。
 折しもスミソニアン・インスティテューションからここ数年のプロダクト、ファッション、建築などの主だった作品を集めた本が今年、出版された。そのタイトルが『skin』。テクノ・ゲルなどの最新テクノロジーによるマテリアルが、いかデザインにまで影響を与えているかを読みとれるこの本の編集意図は明白だ。すなわち表層=皮膜こそが、今、最も重要なデザイン思潮となっているということ。
 Tシャツが着るものであること、スニーカーが履くものであることに、なんら変わりはない。だが、それらを手に入れるまでの消費欲動への戦略は激変した。皮膜(パッケージ)のなかで純粋培養されたかのように商品はオブジェ化しつつある。手に入れる前こそが最も美しい瞬間。
 消費されるモノは、こうして逆説的に、つまり反消費的に顕現するようになったのである。 買ったものは、それをどうするか? 果たして使うのか、コレクションにしてしまうのか? 皮膜の向こう側でモノの行く末は、ますますわからなくなりつつある。

© Hitoshi Nagasawa 2002
初出誌『INTERNET MAGAZINE』2002 / 8

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© 長澤均『INTERNET MAGAZINE』2002年8月号

 

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