critique top

ネヴィル・ブロディの代表作「Industria」は
90年代、Macフォントにデジタル化された。
ブロディが90年代に創刊したタイポ専門誌 『FUSE』。
デヴィッド・カーソンがADをつとめた 9o年代LAを代表する『RAY GUN』。
クランブルック美術学校の 生徒による作品。
日本でも90年代後半、デジタル・フォントを 個人が作品化してゆくようになった。
僕個人の93年の作品。 アクリル文字をデジタル処理した。
90年代末からのヘルベチカ・ブームと フラット、ナチュラルなデザイン傾向。
スカンジナビア・デザイン。 60年代モダニズムのようだ。
 流行とは何なのか?  その「流行」の現場にたち現れるデザインとは、どこに起源を求めうるものなのか?  その「束の間(エフェメラ)の美」の衰退によって次に生まれるものは何なのだろうか?
 ここ数年の動向で最も印象深かったのは、グラフィック、イラストレーション、タイポグラフィの各分野での様式の急激な変容だった。それは一言でいえば「多層」的な構造から「平面」化へ、実験的手法からコンサーバティヴな整合性への転換であった。

 まず、第1回目としてタイポグラフィの流行の変容について見てみることにしよう。それは一部のデザイナーやデザイン分野に限られた思潮ではない。「裏原宿」やサブカル系のお洒落な雑誌からインテリアやファッションなどの一般誌などまで陰に陽に影響を与えているとすれば、これはもうデザイン界の潮流で済む話ではないはずだ。
 欧文タイポグラフィについて簡単に説明しておくと、まず現在最も流通し、さまざまな広告、雑誌レイアウトに使われているスイス系タイポグラフィ*というものがある。美しく読みやすく完成された書体である。「ヘルベチカ」や「ユニヴァース」の名で知られるこのモダーンで読みやすいタイポグラフィは、おもに1950年代のスイスを中心としたドイツ語圏(スイスは4カ国語が公用語)で生まれた。こうしたゴシック(サンセリフ)書体は、最も一般的で、しかも“安全”な書体として主流を成してきた。何しろ東京オリンピックや70年万博の公式タイポグラフィに選定されたほどである。

●80年代ニューウェイヴからデジタル・フォントへ
 その傾向に変化が見え始めたのは1980年代中頃、一人のデザイナーの出現によってだった。ロンドンのネヴィル・ブロディ。デザインに関心のない人でもたぶん彼の制作した書体を見たことはあるだろう。「Industria」は、今日ではきわめて一般的なDTP用フォントのひとつとして知られる。もっとも彼自身は最初から商業的成功を目指したわけではなく、当時の音楽における「ニューウェイヴ」と同じ感覚によってインディーズのレコジャケや『THE FACE』などの誌面をデザインしていただけである。彼のグラフィック、あるいはオリジナル・フォントには、まさにNWミュージックの実験性が宿されていたのであり、それによって世界の若いクリエイターに絶大な影響を及ぼすことになる。また、彼はグラフィック・デザインにMacintoshを用いた最初の世代であり、フォント(タイポグラフィ)制作をMacによってデジタル化*した第一世代でもあった。
 同時期アメリカでもデザインの大胆な実験・革新が始まっていた。クランブルック美術学校*におけるMac上でのノイジーなデザイン、タイポグラフィの解体などだ。3DCGの「滑らかさ」ばかりが追求されていた日本の状況と比べても90年前後のクランブルックの先進性は突出していた。そして92年には西海岸のサンタモニカで『Ray Gun』*が創刊される。デヴィッド・カーソンによる究極までタイポグラフィを解体していったレイアウトは、のちのロンドンやアムスの先端的デザインに強い影響を与えることになる。さらに1984年に創刊されたタイポグラフィ雑誌『エミグレ』も90年代に入ると実験性を増していき、世界中の若きデザイナーがエミグレ・フォントに一目置くようになっていった。こうした状況が90年代のタイポグラフィ・ブームを加速させ、それは日本にも急速に浸透してゆくことになる。

●「フォントグラファー」による個人フォントの隆盛
  日本でそれを担ったのはデザイナーというよりは、むしろデザイン専門学校に通う学生などの若い世代だった。当時、流通し始めたアプリケーション「FontGrapher」を使ってカタカナだけ、すなわち1バイト文字の制作によってアルファベットに替わりうる「革新的な日本語」の制作を目指したのである。それはどこかしら戦前のカナモジカイ*の運動に通ずるところがあったように思える。共通するのはインターナショナリズムだ。90年代のそれを可能にしたのはパソコンの大衆化と音楽という共通言語であった。
 先端的デザインには常に音楽の影響がつきまとうものだが、テクノ・ミュージックの流行は、デザイン、そしてタイポグラフィにかつてないほどの影響力を示した。1989年頃からイギリス、シェフィールドを中心にブリープ・テクノが生まれ、90年代半ばからはエイフェックス・ツインのような「第3世代」と呼ばれる新しいテクノが浸透し始める。またジェフ・ミルズなどデトロイト・テクノのクリエイティヴィティが評価されだしたのもこの頃のことだ。そして未来のデザイナーたちはMacで「テクノな」タイポグラフィを大量に創作していった。DTPとDTMは、まさにシンクロして動いていたのだ。〈デジタローグ〉が「フロッケ展」を開催したのが1995年。そこで個人制作のさまざまなフォントが発表され、製品化されていったのは、このタイポ革新の90年代を象徴する事象だったように思う。そして90年代後半にはインターネットを通じて個人が制作したフリーやシェアウェアのフォントがダウンロードできるようになり、まさにタイポの氾濫ともいうべき状態にまでなっていった。
 こうした自主制作フォントやそれを用いたレイアウトの実験の試みに陰りが見え始めたのは、このインターネットによるフォントの、すなわち「情報」の普及によるのと同時だった。同一情報の過多が飽きを生み、タイポグラフィもレイアウトも、より平面的でシンプルな方へと急速に変化していった。それは音楽におけるテクノの衰微とも軌を一にし、一方では90年代にヘルムート・ラングらによって始まったミニマル・モードが一挙にモードの主潮流になったこと、あるいは妹島和世などの建築にみられる「表層的」な平面性、シンプルさが脚光を浴び始めたことと同時に進行したことであった。「平面性」。現在を象徴するこのキーワードについては次回で解読してゆくことにしよう。
 ここ数年『Casa Brutus』や『pen』でのバウハウスやチャールズ・イームズ特集が人気を呼び、『STUDIO VOICE』のスカンジナビア・デザイン特集はシンプルな北欧家具の流行を加速させた。こうしたすべての状況は、90年代のテクノ的(ロンドン)、あるいはスラッシャー的(西海岸)実験から正統的なモダニズムへの回帰と集約しうるだろう。雑誌のレイアウトに特徴的に見られるのは、スイス系タイポを小さくきれいに並べ、日本語も中ゴシック体を中心にタイトルも小見出しも、きれいに置くだけのデザインである。そこにあるのはモダーン・デザインという以上のフラット感だ。
 モダーン・デザインは「本流」であることによって絶えることはない。あの80年代のポスト・モダン論議の狂乱を経ても21世紀にこうして再度、主流たりえるのであるから。しかしそれも単にコンサーバティヴな美しさを維持しようとするだけなら、早晩、それを破壊しようとする次なる潮流は生まれてくるはずだ。スイス系タイポグラフィは古典的な美しさを持つ。もちろん僕自身も大好きなタイポグラフィである。しかし「ストリート」は常に餓えているということも、われわれは忘れてはならない。

*1.スイス系タイポグラフィの代表とされる「ユニバース」は1957年にアドリアン・フルティガー(Adrian Frutiger)によって制作された。彼はオプチマという洗練された書体を制作したことでも知られる。「ユニバース」は、オランダで最も人気の書体となった。もう一つの代表的存在「ヘルベチカ」は、マックス・ミーディンガー(Nax.A.Miedinger)によってやはり57年に制作されたもので、当初はハース社によって販売されたために「ノイエ・ハース・グロテスク」という名前だったのが62年、ステンペル社に権利が売られ「ヘルベチカ」と改名された。スイスのラテン名「コンフェデラチォ・ヘルベチカから来ている。ちなみにスイス・タイポグラフィがモダーン・デザインのなかで群を抜いたのは4カ国語が公用語のなかで、同じ紙面に各国語を印刷したときに、バランスを損なわないことを意識して作られたからだといわれている。

*2.ブロディの最初の作品集が発表されたのが88年。90年には日本で「ネヴィル・ブロディ展」が開催され、大盛況を博し、この年から彼はジョン・ウォゼンクロフトと組んでデジタル・マガジン『FUSE』を創刊した。さまざまなデザイナーが参加したこの雑誌にはデジタル・フォントがCD-ROMで収載されていた。

*3.クランブルック美術学校で特に先進的な授業を行っていたのが、キャサリン/マイケル・マッコイ夫妻だった。彼らは構造主義やフランスの新哲学思想をデザインに援用し、さらにはデコンストラクションの潮流(思想、あるいは建築界で流行った)を取り込み、文脈とは関係のない罫線の挿入、タイポグラフィの切り刻みなどの実験を行った。PhotoShopのレイヤーやボカシを多用したデザインなどもこの学校の生徒(世界中から留学生がいる)から世界に広まったといっても過言ではない。

*4.『Ray Gun』の創刊当初からADだったデヴィッド・カーソンは元プロサーファーであり、高校で社会学の教師もしていた。80年代からスケートボード雑誌のADをして西海岸の実験的デザインの先端を担ってきた人物である。『Ray Gun』の彼のAD時代のものは、97年に『Ray Gun Out of Control』として一冊の作品集にまとめられている。ちなみに94年の『Ray Gun』誌におけるブライアン・フェリーのインタビュー本文は、暗号化された読めないフォントで組まれて、衝撃を与えた。

*5.カナモジカイは、戦前に日本で作られた国語文字表記を革新しようとする人たちの集合体で、漢字とかなを縦組みに書く伝統から脱して欧米風に左から横書きで、しかも表記をすべてカタカナにすべきだと主張した。国語表記における一種のモダニズム運動といえるだろう。ちなみに創始者のヤマシタ ヨシタロー始め会員は名前もすべてカナで表記していた。

*6.「デジタローグ」は原宿の裏通りに小さなギャラリーを持ち、CD-ROMを制作・販売し日本のマルチメディア販売の先駆的存在だった。「フロッケ展」はフロッピーによる「コミケ」がその名称の由来であるが、その出品内容は、初期のDirectorでの簡単なQuickTime Movieから、年を追うごとに独自のデジタル・フォントの発表の場へと変化してゆく。そして個人の制作した作品を収録したフロッピーはギャラリーで販売され、のちにはCD-ROMにパッケージ化され大手書店でも売られるようになっていった。

© Hitoshi Nagasawa 2002
初出誌『INTERNET MAGAZINE』2002 / 4

※無断転載、無断コピーを禁ず。ウェブ上等での私的利用の範囲内での引用等の場合、出所として下の1行を必ず明記して下さい。
© 長澤均『INTERNET MAGAZINE』2002年4月号

copyright ©1997-2014 papier colle.s.a. All Right Reserved