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20年代のパリを席巻した褐色の女王
ジョセフィン・ベイカー
20年代には多くのジャズ楽団が結成された。
そのほとんどはダンスホール・バンドだった
ジャンゴ・ラインハルト・オット・
クリュブ・ド・フランス
ジャズ評論家ユーグ・パナシェ(左)
1936年の『ホット・ディスコグラフィ』を
著したシャルル・ドローネー
地下酒場〈タブー〉。1940年代後半
トロンピネットを吹くボリス・ヴィアン
マイルス・デイヴィスと共演するバルネ・ウィラン
●ジャズ史のほとんどがアメリカで埋められようとも
この街はジャズを愛した。

マルコム・マクラーレンの信じがたいほどの傑作、『PARIS』に収められた「MILES OF MILES OF MILES」という曲に次のような一節がある。

『サン・ジェルマンの安ホテルでの午後
 ベッドの中のジュリエット・グレコは、マイルス・デイヴィスと逢う
 それからのち、見かけるのはクラブ〈タブー〉で愛し合う彼ら」

 50年代パリを彷彿とさせる固有名詞をちりばめたこの詞は、単にマルコムにとってのパリ・イメージなのだろうか。いや、そうではない。実際、1957年にパリを訪れたマイルスはジュリエット・グレコと逢い、しかもこのふたりは恋愛関係にあったのだ。ここに歌われているのは史実なのである。いや、そんなことはどうだっていい。恋愛関係にあろうが、なかろうが、サン・ジェルマン・デ・プレと〈タブー〉とグレコに遭遇するマイルスとは、まさしく「JAZZIN' PARIS」イメージではないか。
 ことほどさようにパリはジャズに近しかった。ジャズ史のほとんどがアメリカで埋められようとも、この街はジャズを愛した。英国人マルコムならずとも、地下酒場やそこを訪れたジャズメン、あるいは芸術家に「パリ」という都市の横顔を見い出すことは、そう難しいことではない。
 かつてフランスの植民地であったヌーヴェル・オルレアン、すなわちニューオーリンズで生まれたジャズがヨーロッパに流入しはじめたのは、1910年代末のことといわれる。大戦直後の1918年にN.Y.のジム・ユーロップの楽団が、翌19年にはウィル・マリオン・クック率いるサザン・シンコペイテッド・オーケストラがパリに巡業する。いずれもラグタイムの痕跡を残した音。それでもこの騒々しい音楽はヨーロッパで熱狂的に迎えられた。一方では純粋に音楽的に、そう、クックの楽団にいたクラリネット奏者シドニー・ベシェに感動して、あのエルネスト・アンセルメが早くもヨーロッパで最初のジャズ評論を書いたように。そして一方では新時代のダンス・ミュージックとして。

●「レヴュ・ネグル」の時代
詩人ジャン・コクトオは1919年8月4日、この熱狂を先取りし、「ジャズ・バンド」と題する一文をしたためている。「ジャズ・バンドこそは、これら野性的な力の精髄と考えるべきものだ。それらの力は残忍と憂欝とを歌っている。」(『白紙』)
 折しもパリでは黒人芸術が大流行する兆しをみせていた。すでに大戦前からドランやヴラマンクらのフォーヴィストが、ピカソが、コクトオがそれを担っていた。いや、それは誰かに帰依するものではなく、シュペングラーの言う「西洋の没落」の兆候だったのかもしれない。ともあれ、こうした非西洋文化への憧憬――ロシアン・バレエの流行もこの文脈の中にあったはずだ――は20年代に大きなうねりとなってヨーロッパ文化に染み込んでゆく。その最も顕著な例はジョセフィン・ベイカーの人気だろう。
 それはアール・デコ様式の年、1925年に始まった。アメリカ人キャロライン・ダドリー企画による「レヴュ・ネグル」、すなわちニグロ・レヴューは、スペイン人の血をひく白黒混血の「褐色の女王」ジョセフィン・ベーカーの裸体と新しいダンス、チャールストンを伴ってシャンゼリゼ劇場に登場した。画家のピカビアやヴァン・ドンゲン、シュルレアリストのロベール・デスノスらが訪れ、マン・レイはカメラを持って駆けつけたという。その肉体とダンスによってパリでセンセーショナルな人気を博したジョセフィンとニグロ・レヴューは、翌26年にはベルリンに客演し、ここでも驚異的な成功を得る。西欧は、なべて褐色のダンサーとその楽団にひれ伏したのである。
 20年代はアメリカのジャズメンの渡欧ラッシュでもあった。ジャック・ヒルトン、ノーブル・シスル、サム・ウッディングなどの楽団がヨーロッパ各都市を公演し、ジャズ、あるいはダンス音楽をリードした。しかしパリがいかにジャズに熱狂しようとも、まだ歴史に残るジャズメンを輩出してはいなかった。それは30年代に入って登場する。ジプシーの出でアメリカにもない独自のジャズを創出したジャンゴ・ラインハルトである。
 34年に自らの楽団<フランス・ホット・クラブ五重奏団>を率いて最初の吹き込みを行い、53年に他界したこの天才ギタリストについては、いつか詳細を書いてみたいと思っている。ヒッピー全盛期の1973年にラジオでジャンゴ・ラインハルト・オット・クリュブ・ド・フランスの1948年の録音「NUAGE」を聴いて以来、自らのバンドでそうした音楽を志したほどの影響を受けたミュージシャンだ。彼の音楽のいかに素晴らしかったことか。シネ・ジャズについて語る人たちが『死刑台のエレベーター』や『好奇心』については触れるのに、なぜ同じルイ・マル監督の『ルシアンの青春』(73)については語らないのか。タイトル・バックで主人公ルシアンがフランスの田舎道を自転車で走るシーンに流れるジャンゴの名曲「マイナー・スイング」。それはこの映画で最も美しいシーンだった。ジャズに馴染みのない人であれば、先に触れた「NUAGES」を聴くがよい。ジョー・パスらの演奏で知られるこの曲はジャズというジャンルを超えた美しい曲である。
 30年代といえば、34年から5年間この地に滞在し、ジャンゴとも共演したコールマン・ホーキンスの名を忘れることはできない。いや、彼だけではない。不況下のアメリカでのスィート・ミュージックの流行から逃れてデューク・エリントンやルイ・アームストロングらの大物もパリに足跡を残した。

●『ル・ジャズ・オット』
こうしたなかでパリに花開いたのはジャズ評論だった。1934年にわずか22歳で『ル・ジャズ・オット』を著したユーグ・パナシェ、アメリカで制作された全ジャズ・レコードのディスコグラフィをまとめた書『ホット・ディスコグラフィ』を36年に25歳で刊行したシャルル・ドローネー、彼らの存在はこの地のジャズ評論の質の高さを世界に誇るとともに、この街がいかにジャズを愛しているかの証ともなった。ちなみにシャルル・ドローネーはキュビズムの画家、ロベールと幾何学的抽象の画家ソニアのドローネー夫妻の息子であった。のちにビ・バップが登場したとき、それを真っ先に認めたシャルルと、伝統的ジャズに固執したパナシェとの間に論争が起きるが、こうしたモダニストの家庭に育ったシャルルが、時代を塗り変えていく新しいスタイルを評価したのは必然だったのかもしれない。
 パナシェとドローネーは、30年代に生まれたジャズ愛好家の組織〈オット・クルブ・ド・フランス〉を運営していたが、ここから彼らは機関誌として『JAZZ HOT』を発刊する。そう、やがてヴィアンが幾多のジャズ批評を発表していくことになる雑誌である。
 ボリス・ヴィアン。美しくも哀切な小説『日々の泡』を書き、〈タブー〉でトロンピネットを吹き、多くのジャズ時評を残してわずか39歳で世を去った、このジェルマノ・プラタンについては、ここ10年、すでに多くのことが書かれてきた。しかし書かれたもの以上に感動的に彼を紹介したのは1967年に制作され、日本でも88年に公開された映画『想い出のサンジェルマン』だろう。ここでは〈タブー〉でクロード・アバティ楽団の一員としてプレイする姿、あるいはギターを弾く姿など「動くヴィアン」を見ることができる。
 美術史家アラン・ジュフロワは当時の〈タブー〉を、こう回想している。「好みの曲が演奏されると、カップルは歓声をあげてフロアにとび出していき、朝の四時、五時まで踊っていた」
 現在のクラブと変わらぬ姿。それにしても今日、ジャズはなんと昔日の輝きを失ってしまったことか。

 〈タブー〉を機に冒頭のマイルスとグレコの話に戻ろう。このとき彼はグレコの紹介でルイ・マルに出会い、『死刑台のエレベーター』を吹き込む。このセッションに参加したのが当時、20歳のバルネ・ウィランだった。56年、わずか17歳でデビューした色白の青年ウィランはマイルスとのセッションの成功で、その後3本の映画のサントラを手がける。そのいずれともいかにもフランス的香りに満ちた秀作。なかでも『彼奴を殺れ』など、彼の作曲の才がいかに優れていたか知れる傑作である。それでも彼は、60年代にはジャズ界から失踪せねばならなかった。
 時は下って1990年、『Hommage A Boris Vian』なるCDがリリースされる。ヴィアンのかつての盟友アンリ・ルノーの日の目を見なかった「サン・ジェルマン・デ・プレのランデヴー」という曲では、ヴィアンがいなかったためにリュテール、ベシェ、チャーリー・パーカー、マイルスなどに会えなかった話が歌われる。そして最後に次のような一節。「私たちは恋人同士にはならないわ。だってこれはただのランデヴー、延び延びになったランデヴー」。――その後のパリとジャズとの関係も、あるいはこのようなものだったのかもしれない。

© Hitoshi Nagasawa 1994
初出誌『STUDIO VOICE』1994.10.vol.226

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