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バリー・リンドン,スタンリー・キューブリック
『バリー・リンドン』での
テータム・オニールとマリサ・ベレンソン。
バリー・リンドン,スタンリー・キューブリック
このシーンから7分間、音楽だけで
恋愛関係が描かれてゆく。
この映画の最高のシーンでもある。
ハンガー,デヴィッド・ボウイ,カトリーヌ・ドヌーヴ
『ハンガー』でのデヴィッド・ボウイと
カトリーヌ・ドヌーヴ。
ハンガー,デヴィッド・ボウイ,バウハウス
『ハンガー』の冒頭のシーン。
バックに流れるのは、
あのNWの伝説的バンド「バウハウス」だ。
 スタンリー・キューブリックといえば、『2001年 宇宙の旅』(68)、あるいは『時計仕掛けのオレンジ』(71)を思い出す人が圧倒的だろう。この二作品に劣らぬ傑作でありながら案外、観られていないのが歴史大作『バリー・リンドン』(75)である。
『バリー・リンドン』は、サッカレーの原作をもとに18世紀を生きた、ある男の栄光と没落を描いたものだが、キューブリックが意図したのは、その「物語」性よりも18世紀をいかに忠実に再現するかだった。『2001年 宇宙の旅』で、完全主義を極めたキューブリックは、この映画でも18世紀という時代を完璧に描き出そうとした。
 3時間、2部構成の長尺作品に登場する人物の膨大な量の衣裳製作のために二つの工場が借りられ、細部に至るまで厳密な時代考証がなされた。また、アイルランドとイングランドで撮影された風景にはコンスタブルなどの18世紀風景画が参考にされ、まさに泰西名画的なシーンの数々が作り出された。白眉は、蝋燭の灯りで撮影できる高感度レンズを使ったことだ。これはツァイス社がNASAのために開発したもので、キューブリックは当時、映画会社にもほとんど残っていなかった貴重なIBCカメラを改造して、このレンズを取り付けた。こうして映画史上初めて蝋燭の灯りのみの18世紀の夜の室内が再現された。
 この典雅な灯りのなか、賭博をする主人公バリーが美貌のリンドン夫人をみつめ、誘惑する。そのとき流れる音楽がシューベルトの「トリオno.2ホ単調作品100」である。この曲はシューベルトが1827年に作曲を始めたもので時代考証に厳密なキューブリックが、この19世紀の作品を使うには相当の迷いもあったはずだ。だが、実際に観ると、このシーンにはこの音楽しかないと思わせるほど美しい。しかも7分あまり、この曲を流し、その間にバリーがリンドン夫人を見初め、誘惑し、恋愛関係に落ちるまでをすべて描くというおそるべき撮影・編集をしているのである。
「トリオno.2ホ単調作品100」は、シューベルトのよく知られた作品というわけではないし、録音もそう多くはない。美しい曲だが、『バリー・リンドン』では、さらにロマンティックに編曲し直された。だが、映画そのものがヒットしなかったこともあり、この曲について語られることも少なかった。
1983年、あのリドリー・スコット監督の弟、トニー・スコットが『ハンガー』という映画を制作する。カトリーヌ・ドヌーヴとデヴィッド・ボウイを主演に、急速に年老いてしまう吸血鬼の物語。舞台は現代のニューヨークだ。この映画で効果的に使われたのも「トリオno.2ホ単調作品100」だった。しかも主人公の二人が出会ったのは、18世紀という設定なのである。
おそらくスコット監督は『バリー・リンドン』から、深く影響を受けたのだろう。テンポはかなりゆっくりにしているが、編曲までよく似ている。
『バリー・リンドン』では、最後にこう語られる。「富める者も貧しき者も、今はすべてあの世」。そして『ハンガー』は、けして「あの世」に行けない吸血鬼の物語。反語的ともいえる両者の世界を、あくまで美しく切なく繋いでいるのがシューベルトの「トリオno.2ホ単調作品100」の響きなのである。

© Hitoshi Nagasawa 2004
初出誌『bista』vol.272 2004

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