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イーディス・ヘッド,Edith Head,エディス・ヘッド,オードリー・ヘップバーン
オードリー・ヘップバーンと
撮影の合間に談笑するイーディス・ヘッド。
イーディス・ヘッド,Edith Head,エディス・ヘッド,オードリー・ヘップバーン
イーディスのスケッチ画。
古代風のコスチュームから現代物まで
幅広くてがけた。
イーディス・ヘッド,Edith Head,エディス・ヘッド,オードリー・ヘップバーン
コスチュームのスケッチを床に
拡げるイーディス・ヘッド。
 モードの星座に綺羅星の如く輝く有名デザイナーの名を私たちは何人も知っている。デザイナーが亡くなってもメゾンが残り、あるいはブランド名が生き延び、神話のようになっていった例をいくつも知っている。シャネル、ディオール、ベルサーチ……。だが、アカデミー衣裳デザイン賞に34回ノミネートされ、8回もオスカーを取り、生涯に1000本近くの映画に関わり、映画からそのモードを幾たびとなく流行らせた、ある女性デザイナーの名は、映画ファン以外、ほとんど知られていない。その名をイーディス・ヘッドという。
 彼女の名を聞いたことはなくとも、多くの人が彼女の作品は記憶しているはずだ。オードリー・ヘップバーンが『麗しのサブリナ』(54)で穿いた「サブリナ・パンツ」、その前年に作られた『ローマの休日』のブラウスとフレアスカート・スタイル。しかもこの二作で彼女は二年連続オスカーを受賞しているのだ。
 1907年にカリフォルニアに生まれたイーディスはUCLAでフランス語を学び、語学教師の職に就くが、結婚して退職、まもなく離婚。どうしても職に就きたかった彼女は新聞でパラマウント社がスケッチ・アーティストを募集していることを知ると、当時通っていたアートスクールの友人からデッサンを買い、面接を受けたという。23年に晴れてパラマウントに入社、こうして彼女の強運ともいうべきデザイナー人生は始まった。
 アシスタントとして現場で働きながらアートスクールに通い、彼女は猛勉強した。30年代に入ってメイ・ウェストの衣裳で注目され、やがてパラマウントのチーフ・デザイナーを任されることになる。「南海女優」ドロシー・ラムーアのエキゾチックな衣裳で、アメリカ中にリゾートウェアを流行らせたのもこの頃のことだ。
 30年代以降の彼女の働きぶりは猛烈だった。朝の8時から深夜まで週6日働き、3本から6本の映画を同時に担当していたという。ハリウッドで衣裳デザイナーとして成功するのは、ある意味、ファッション界よりも過酷なことだ。時代考証も、現代の流行の先を読むことも、どちらも必要とされるのだ。彼女にはそれができた。『サムソンとデリラ』(49)のような時代物から『裏窓』(54)のグレース・ケリーの知的で優雅な最新モードまで、ありとあらゆるモードを魔法のように生みだした。ヒッチコック作品の多くがイーディスのデザインだと知れば、もう一度、彼の映画を見直してみたくなることだろう。
 イーディスの活躍は映画に留まらなかった。60年代にはパンナムのスチュワーデスの制服をデザインし、国連のガイドの制服もデザインした。映画で彼女の衣裳を着た女優が自分の服をオーダーした例も少なくない。それでも彼女は自分の店もブランドも作ろうとはしなかった。ただひたすら映画に寄り添ったのだ。81年に没するまで彼女は衣裳デザインを続けた。最後の作品は82年公開の『四つ数えろ』。映画に捧げた一生であり、映画を美しくした一生でもあった。これほど素晴らしい人生も滅多にないことだろう。

© Hitoshi Nagasawa 2005
初出誌『bista』vol.278 2005

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