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 ジョン・コルトレーン、1967年に40歳でこの世を去った不世出のサックス・プレイヤーは、最後まで求道的だった。64年に『A Love Supreme』を出したとき、その姿勢も極まったか、と思われたが、それでも彼は進化を止めなかった。60年代半ば、アヴァンギャルドに移行するにつれ、人々は難解だといって遠ざかっていったが、それは難解というよりも、より求道的なアヴァンギャルドであった、というだけのことだ。
 コルトレーンが最初に自身の名義のリーダーアルバムを発表したのは、30歳のときだった。遅咲きといっていい。しかし、その音楽活動は早くから始まっていた。
 1926年、ノースカロライナの田舎町で生まれたコルトレーンは、パプテスト派の牧師を叔父に持ち、その縁もあってか教会でクラリネットとアルト・サックスをおぼえた。17歳でフィラデルフィアに出ると、製糖工場で働きながら音楽学校に通い、2年後に徴兵されたときは海軍の軍楽隊に配属された。少年期以来、彼が音楽から離れたことはなかった。
 除隊後、リズム&ブルースのバンドに入ってプロとしての第一歩を踏み出す。すでに20歳の頃にはビッグ・メイベルのような有名な女性R&B歌手と共演しているくらいだから、スタート時からその才能は、まわりの評価を勝ち得ていた。23歳でディジー・ガレスピーの楽団(当時、彼は楽団を率いていた)に雇われ、そこでビ・バップを知り、チャーリー・パーカーのインプロヴィゼーションに衝撃を受ける。やがて50年代初めには尊敬するジョニー・ホッジスと共演、友人ソニー・ロリンズに倣い、アルトをテナーにもちかえ、さらにマイルス・デイヴィス・クインテットに加入、この時点でやっとコルトレーンの名は世間に広まっていくことになる。
 しかし、麻薬の問題でコルトレーンはマイルスのところをクビになる。一説には、そのことでマイルスに殴られたという話しもあるくらいだから、マイルスも相当、腹に据えかねたのだろう。そんなコルトレーンを拾ったのがセロニアス・モンクだった。モンクとのセッションでは、1〜2曲モンクがプレイすると、あとは残りのプレイヤーに勝手に演奏させて、モンク自身はずっと窓から外を眺めたりしていたという。そのときにコルトレーンは、自分で自由に判断して演奏のスタイルを作っていくことを学んだらしい。マイルスのところにいたときは、どう演奏したらいいかマイルスに何度も訊いて怒られたりもしていた。
 このあたりまでがコルトレーンの前半生といえるかもしれない。モンクのところで単音楽器であるサックスでのハーモニーを学んだコルトレーンは、57年、自身の初リーダーアルバムをプレスティッジから発表、ここから短い後半生を歩んでいくことになる。
 60年4月、コルトレーンはインパルスと契約第一号のサインを交わし、翌61年、インパルスでの最初の録音、『AFRICA / BRASS』が発表された。エリック・ドルフィーをブラス編曲に迎えた「AFRICA」や「BLUES MINOR」の素晴らしさ、そしてモード演奏の見本のようなイギリス民謡「GREENSLEEVES」。これはまったく大傑作アルバムであった。
 個人的な好みをここで言わせてもらうと、この『AFRICA / BRASS』と「AFRO BLUE」が入った63年の『Coltrane Live at Birdland』が、最も好きなアルバムだ。17歳の頃、寝ても覚めてもコルトレーンで、「AFRO BLUE」は何度、聴いても聴くたびに涙したものだ。それほどまでにこの演奏は素晴らしく、美しかった。
 ユニバーサル・ビクターから発売された『コルトレーンの神髄』は、このインパルス時代のカルテットでのスタジオ録音を集成した8枚組のコンプリートものである。8枚目には初めて紹介される7つの別テイクが入っていて、この演奏も本当に刺激的だ。コルトレーンの最盛期の全体像をほぼ、見渡せると言ってもいいだろう。
 64年の『A Love Supreme』を最後にコルトレーンは、ストレート・アヘッドなジャズからフリー・スタイルへと移行していく。不動といわれたカルテットを解散し、若手や妻のピアニスト、アリスを加えた新メンバーでフリー・ジャズへと突き進む。67年、肝臓癌で急逝するまでにアルバム20枚ほどの録音を残したと言われるが、そのどれほどが日の目を見たのだろう。映像にしても、この時期のコルトレーンの演奏を撮したものは、アマチュアの8ミリフィルムがあるのみといわれる。それほどフリー・ジャズは、まだ理解されなかったのだ。
 この最後期にドラマーを務めたラシッド・アリは、この頃でもコルトレーンは練習につぐ練習の日々だったと証言している。また、ジャズ評論家のミシェル・ドゥロームは、65年にホテルでコルトレーンがアルバート・アイラーを聴きながら練習しているのを見ている。すでに名を成しても探求を捨てず、誰よりも練習したのがコルトレーンだった。たしかにマイルスは天才だったかもしれない。コルトレーンは?  彼は死ぬまでに残すべきもの以上のものを残した。それが努力の賜だったのか、それとも天才の技だったのか、そんなことはどうでもいいことだ。
 早すぎる晩年を疾走しながらコルトレーンは、ドゥロームに「体力的にも芸術的にも私は、すでに追い抜かれている」と語っていた。でも、その意識こそが彼を最後まで求道的にし、前衛を疾駆させることになったのではないか。
 コルトレーンを聴くべきである。
 僕自身、この10年、ハウスに、アンビエントに、ドラムン・ベースにいきながらも、つねにコルトレーンに立ち帰ってきた。それほどに時代を超越しジャンルを超越して素晴らしいのである。

© Hitoshi Nagasawa 1999
初出誌『eleking』1999 2/3 vol.23

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