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Mary Pickford
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Louis Brooks
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Marlene Dietrich
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ルディ・ガーンライク,Rudi Gernleich,カイリー・ミノーグ
Grace Kkelly
Grace Kkelly
Audrey Hepburn
Brigitte Bardot
Brigitte Bardot
Jean Seberg
Jean Seberg
Catherine Deneuve
Catherine Deneuve
Dominique Sanda
Farrah Fawcett
Farrah Fawcett
 スターがモードを先導する。それがかならずしも本人のセンスでなく映画会社によって作られた虚像だったとしても、大衆はそのモードに従うものだ。なぜならスター・システムとは、つねにこうした豪奢や華麗を象徴し、大衆の欲望を刺激するものだからだ。
 1910年代はモードにとっても映画にとっても革命的な転換期であった。モードの世界ではフランスのポール・ポワレが女性をコルセットから解放し(06年)、中近東風エキゾチシズムや、さらにはロー・ウェストで寸胴なギャルソンヌ・ルックと、さまざまな革新を成し時代の寵児となっていた。
 同時期、映画はハリウッドで娯楽産業の一角を形成し始めていた。それとともにスター・システムも作られてゆく。メアリー・ピックフォードは、D・W・グリフィス監督作品でハリウッド最初のスターになったが、ハリウッドで最初にパリのクチュリエに自分の服を注文した女優でもあった。そう、ポール・ポワレに注文したのである。ヨーロッパの上流階級の絶対的な支持を受けていたポワレにとって、ハリウッド女優の注文など、たいしたものではなかったが、それでもモード界は次なる大クライアントとここで出会ったわけだ。ふたつの世界大戦を経て、かつての貴族階級は没落し、スターがその後のモード界のキャンペーン役を担ってゆくことになるのだから。

●マレーネ・ディートリッヒと30年代
 第一次世界大戦で敗れたドイツは疲弊し、困窮しながらも映画や芸術は活力に溢れ、20年代ベルリンはヨーロッパの一大映画都市ともなる。『ヴァリエテ』(25)のリア・ディ・プティ、あるいは『パンドラの筺』(29)のルイーズ・ブルックスのボブ・ヘア(断髪)は、世界中の女性に影響を与えた。そしてこのベルリンで一本の映画が作られる。『喜びなき街』(25)。スウェーデン出身のグレタ・ガルボが主演し、さらにはマレーネ・ディートリッヒも端役で出演していた。いまだ神話的であり続けるふたりの女優が、ここで共演していたのだ。
 ガルボは、この映画を機にハリウッドに渡り、大スターとなり、ディートリッヒもハリウッド映画『モロッコ』(30)のヒットで大女優の道を歩むことになる。ディートリッヒは、その後、70歳を過ぎても歌手として舞台で活躍しただけあって、衣裳にはお金を惜しまなかった。何人ものデザイナーの服を愛用したが、最も贔屓にしたのはバレンシアガだった。「バレンシアガはどんなカットが正しく、どんなカットが無意味か知っている。バレンシアガの最初の仮縫いは、他の店での三度目の仮縫いにあたる」とまで語っているくらいだから相当の心酔ぶりだったのだろう。
 30年代には女性がネクタイをしてパンタロン・スーツを着るというマニッシュなスタイルが現れるが、それを最初に実践したのもディートリッヒだといわれる。
 一方、グレタ・ガルボは、というとオフのときには、地味な服装で人目を忍んだ。彼女もまたラフなセーターにパンタロンというマニッシュな服装を好み、42年に突然、引退してからはマスコミを徹底的に避けた。それかどうか知らぬが、彼女がNY五番街の店に靴を買いに来るときは、同じものを10足買っていったという逸話も残っている。

●ハリウッドのクール・ビューティたち
 40年代、50年代のハリウッド女優の美しさは、それこそ満天の綺羅星の如くであった。「クール・ビューティ」とは、この時代から60年代初頭にかけてのエレガントな美女を指す言葉だが、最初に使われたのはグレース・ケリーに対してだった。デビュー作が主演。しかもたった4年ほどの女優時代にアカデミー賞を取り、56年にはモナコのレーニエ国王に見初められ、モナコ王室に収まってしまった。まったく完璧な人生。
 彼女の名をモードと結びつけているのは、もちろんかの「ケリー・バッグ」である。結婚し、妊娠中だった彼女は、「LIFE」誌のカメラが向けられたとき、とっさにバッグでお腹を隠した。そのバッグが愛用していたエルメスのサック・ア・クロアだった。エルメス4代目社長ロベール・デュマは、このバッグに「ケリー」という名前をつけることを思いつき、モナコ王室から許可を得る。
 エルメスは同様のことをもう一人の女優でもやった。「バーキン」だ。これは84年にエルメス社長が飛行機内でジェーン・バーキンを見かけたときに、彼女のバッグから中身がはみ出ているのに気付き、たっぷり収納できるオータクロアをアレンジし名付けたものだ。
 彼女たちはバッグでモード史に名を残したが、実際のモードでクチュリエと深く結びついたのは、オードリー・ヘップバーンだった。彼女はジバンシィ一辺倒で、映画のなかでも彼の服を愛用した。ハリウッドきっての衣裳デザイナー、イーディス・ヘッドは、『麗しのサブリナ』の衣裳を担当したが、オードリーが自分でパリで買ってきて、映画のなかで着用したジバンシィの名が映画クレジットに自分の名と並ぶのを拒んだ。『麗しのサブリナ』(54)でオードリーがパリで料理修行して帰って来たときのスーツや夜会でのカクテル・ドレスはジバンシィのものなので、この映画の半分はジヴァンシーのものといっていい。以降、ふたりの信頼関係は続き、ジバンシィは毎年、オートクチュールのショーの最前席をオードリーのために用意し続けた。

●ヌーヴェル・ヴァーグの革新
 パリではBBことブリジット・バルドーが56年の『素直な悪女』でブレイクする。ブルジョワの家庭に生まれながら、当時はまだ監督にもなっていなかったロジェ・バディムとすでに結婚しており、彼とともに有名になってゆく。天衣無縫さとエロティシズムで売ったバルドーは、宝石にも高価な衣装にも興味がなかった。カジュアル──だが洗練されていた。彼女の何気ない服装は世界中の女のコに真似された。そのあたりはジーン・セバーグも同様だ。ゴダールの『勝手にしやがれ』(59)でのショート・ヘアは、世界中で流行したのだから。
 もっともフランスの女優たちが本場のクチュリエに無関心だったわけではない。ジャンヌ・モローはシャネルを、その後は、ピエール・カルダンを愛用した。カトリーヌ・ドヌーヴは、サンローランばかりだった。彼女の映画では衣裳デザイナーとして、よくサンローランが起用されたし、サンローラン自身が「ドヌーブこそ、私の創造のミューズです」と語っているくらいだから相当な結びつきようだった。
 70年代に入り、ヒッピーのアンチ・モード志向は、ハイ・ファッションの世界を停滞させ、「人気女優」は生まれても、かつてのスターにあった「手の届かぬところにある美」のような神話性は生まれなくなってしまった。端役で映画デビューし、TVシリーズ『チャーリーズ・エンジェル』(76〜)での驚異的なブレイクによって、再度、主演級として映画に復帰したファラ・フォーセットの例は象徴的ともいえるだろう。もっとも彼女の「ベッドから出てきたばかりのような髪型」は、それ以降のLAエロティシズムの支配的潮流となる。
 ヨーロッパでは、ドミニク・サンダやマリサ・ベレンソンのようなモデル出身の女優が現れ、この流れはユマ・サーマンに引き継がれた(ちなみにファラ・フォーセットもモデル出身)。だが、オートクチュールが話題にならなくなり、プレタポルテに制覇された現在では、モードも女優もかつてのような神話作用は持ちえなくなってしまった。

© Hitoshi Nagasawa 2004
初出誌『STUDIO VOICE』2004.4.vol.340
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