●ヴィリエ・ド・リラダンの短編集『残酷物語』(現代「コント・クリュエル」)は、僕が最初に出会ったリラダン作品だ。フランス王位継承権を主張するほどの大貴族の家柄に生まれながらも、赤貧洗うがごとき生涯を送った彼の作品には、19世紀のブルジョワの卑俗さへの痛烈な揶揄と、アリストクラシイ希求の二つの側面がある。ここに収められた作品のなかでは「ヴェラ」「ポートランド侯爵」「サンチマンタリズム」「見知らぬ女」の四編が、高貴なる美しさに満ちた作品で、まあ、これ以上の短編は文学史上に存在しないと言ってもいいだろう。1977年12月11日、神田の田村書店にて購入。
●『残酷物語』(上巻)ヴィリエ・ド・リラダン 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和二十四年三月二十五日発行
●『残酷物語』(下巻)ヴィリエ・ド・リラダン 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和二十四年四月三十日発行

●斎藤磯雄氏の翻訳による『残酷物語』の最初の出版が、戦前の1937年に刊行されたこの版である。表紙にも背にもどこにも日本語表記がないあたりがすごい。このとき中扉のみ「リラダン」と表記されているが、解説文などでは、すべて「リイラダン」になっている。訳文のほうも長く再版を重ねた筑摩書房版などとは、かなり異同がある。後記で、これは「コント・クリュエル」前半、半分であり、残り半分もすでに翻訳を終え、上木を待つばかりのように書いてあるが、この版は未見である。しかもこの昭和十ニ年版そのものがほとんど出回っていない幻の版らしい。
●『残酷物語』ヴィリエ・ド・リイラダン 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和十ニ年六月十八日発行

●リラダン作品翻訳に生涯をかけた斎藤磯雄氏は、戦前から三笠書房で全集の翻訳出版を試みていた。昭和十六年に発行された、この『新残酷物語』は、リラダンの『残酷物語』に続く短編集だが、『残酷物語』を最初に読んだときの新鮮さには及ばない。本書は箱入りで刊行されたが、同じシリーズの『残酷物語』の箱入りなどは見たことがない。どういう事情だったのだろうか。
●『新残酷物語』ヴィリエ・ド・リラダン 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和十六年七月十八日発行

●『アクセル』も三笠書房から出版された全集刊行予定のなかのひとつ。物語も面白いが、なかでも主人公のアクセル・ドオエルスベエルが言う「生きる? そんなことは召使いどもに任せておけばよい」という台詞は、リラダン作品を象徴する名台詞としていろいろなところに引用された。1980年11月1日、神田の田村書店にて購入と奥付に記入あり。
●『アクセル』ヴィリエ・ド・リラダン 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和十八年五月二十日発行

●『至上の愛』は、三笠書房版のなかでも最後にみつけたもの。当時のパンフレットには、のちの東京創元社版とほとんど同じ内容(巻数は違うが)の斎藤磯雄個人訳の全集刊行予定が載っているが……どうやらこの企ては『残酷物語』『新残酷物語』『アクセル』まで刊行されたあとで戦争によって頓挫してしまったらしい。
●『至上の愛』ヴィリエ・ド・リラダン 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和二十三年十月三十一日発行

●日本のフラン文学研究の礎を築いた東大仏文科創設者、辰野隆による短編選集。名前が「リイルアダン」となっているところが面白い。ちなみに正式にはジャン・マリ・マティアス・フィリップ・オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダンと長い。生没年は1838年〜1889年。この箱入り装丁の上下巻は『残酷物語』、『新残酷物語』の二冊からの選。訳者は辰野の他に鈴木信太郎、渡邊一夫、伊吹武彦など門下生たち。
●『リイルアダン短篇選集』(上巻)ヴィリエ・ド・リラダン 辰野 隆 他訳 弘文堂書房 昭和十五年十一月二十五日発行
●『リイルアダン短篇選集』(下巻)ヴィリエ・ド・リラダン 辰野 隆 他訳 弘文堂書房 昭和十六年二月二十五日発行

●辰野隆の薫陶を受けた鈴木信太郎らによって東大仏文科の系譜がつくられていく。リラダンの翻訳も斎藤磯雄以前には渡邊一夫など、この東大仏文科系列が多かった。トリビュラ・ボノメ博士の世俗性とその卑俗さをもって19世紀合理主義に徹底的な批判を加えたリラダンらしい痛烈な一冊。日本でのフランス文学出版を代表する白水社のこの頃の装丁は、どれもこんな感じのシンプルな美しさをもつ。巻末に附されたリラダン略年譜が詳細を極めた労作で、斎藤氏訳の全集が出るまではこれが最高の資料だった。
●『トリビュラ・ボノメ』ヴィリエ・ド・リラダン 渡邊一夫 訳 白水社 昭和十五年二月六日発行

●『未来のイヴ』はリラダンが40歳で執筆を開始し、47歳で脱稿した長編。主人公エワルド卿が美女アリシアに恋するが、その内面の卑俗さに辟易し、彼女そっくりの人造人間を造ってもらうという物語は、世紀末的でもあり、SF的でもある。リラダンは合理主義や功利主義、進歩主義を嫌悪していたが、科学そのものは面白がっていた節がある。この小説も人造美女の細部の描写は異常なくらいに綿密だ。この白水社版は判型も大きく分厚い。当時から高価(定価三圓八十銭=たぶん教員の一ヶ月の給料くらい)だった。本来は箱入りだが、箱が残っているものは値段も高く、それが買えなかった大学生の僕は他の本でもよくやっていたように自分で装丁してしまった。ちなみにのちに岩波文庫から上下二巻で発行された版もあり、これは80年代に復刻されてもいる。
●『未来のイヴ』ヴィリエ・ド・リラダン 渡邊一夫 訳 白水社 昭和十二年十月三〇日発行

●『未知の女』というテーマでリラダンの短編三作品、それにフロオベエルの「ジュリアン聖人傳」を加えた異色の選集。斎藤訳で「見知らぬ女」というタイトルに翻訳された短編は、辰野隆以来の「未知の女」という題名で収められている。訳は辰野の教え子である鈴木信太郎。この訳も悪くない。なかなか古本屋にも出ない珍しい本だと思う。
●『未知の女』リラダン他 鈴木信太郎 訳 酣燈社 昭和二十二年五月十日発行

●リラダン研究とその全訳に生涯を捧げた斎藤磯雄氏が、29歳の時に上梓したリラダン研究の決定書。ただし初版が絶版になって以後、この本が再刊されることはなかった。斎藤氏自身が再刊の誘いに肯んじなかったという。若書きを嫌ったのであろうか? 死後に刊行された東京創元社版、斎藤磯雄著作集1(平成三年七月十日発行)には、このあたりのいきさつにも触れた上で収載されている。リラダン研究でありながらリラダン作品のごとき雅文調で書かれ文体の美しさは驚くべきもの。ちなみに斎藤氏はフランス歌曲や漢詩の研究でも有名で、歌曲に関しては自らピアノを弾きながら歌ったほど。若き日の美青年ぶりも夙に知られている。
●『リラダン』 斎藤磯雄 三笠書房 昭和十六年十一月十五日発行

●斎藤氏のもうひとつの重要な翻訳・研究対象だったのが、シャルル・ボオドレエル。彼の漢詩への造詣がなかったら、これほどのボオドレエル訳詩は生まれなかったに違いない。辰野隆が当代、最高の訳業と賛辞した作品でもある。ちなみに若き日の斎藤氏は日本橋丸善で、ボオドレエルの『惡の華』の「戀する男女の死」の一節に曲をつけた本を発見する。それがリラダン作曲によるもので、しかもリラダンの伝記本であった。その譜面を読みながら氏は、リラダンにのめり込んでゆくことになる。のちのリラダン全集はボオドレエルが結んだ縁でもあった。藤岡光一による赤と黒のフランス語のみのシンプルな箱のデザインが美しい。
●『惡の華』 斎藤磯雄 三笠書房 昭和十六年十一月十五日発行(限定壱千部)235番

●のちに思潮社から出版された斎藤氏の『ボオドレエル研究』の原著がこの三笠書房版。これもまた長くボオドレエル研究の底本となった名著である。とくにダンディズムの側面を解いた章は、日本で最初のダンディズム論といえるものかもしれない。「韜晦趣味=ミスティフィカシオン」をボオドレエルのダンディズムの本質とする考察に感動を覚えた記憶がある。
●『ボオドレエル研究』ボオドレエル 斎藤磯雄 訳 三笠書房 昭和二十六年六月三十日発行(限定壱千五百部)235番

●リラダンと同時代を生きた詩人レオン・ブロワによるリラダン頌の評論集。リラダン亡き後に彼が、どれほどの反時代精神をもって時代の功利主義的卑俗さに徹底的な悪罵を加えたか、小評論でありながらも痛烈な一冊。訳者はティオフル・ゴーティエの翻訳で知られる田辺貞之助。
●『リラダンの復活』レオン・ブロワ 田辺貞之助 訳 森開社 昭和五十一年五月二十日発行(限定壱千五百部)

●ついに斎藤磯雄氏個人全訳によって刊行された東京創元社版の『リラダン全集』。最初に限定千五百部が発行され、そのあとに普及版が刊行された。しかしリラダン全集を買う人が日本に千五百人もいると予測されたことは驚きだ。この限定版はクロス装に背は革装。文字は箔押し。通常の装丁箱に、それを入れる段ボールの箱がついているのが、普及版とは違うところ。斎藤磯雄氏の彫琢を重ねた訳稿もすごいが、日下弘氏の活版活字まで吟味を重ねた装丁・造本も素晴らしい。
●『ヴィリエ・ド・リラダン全集』全五巻 斎藤磯雄 訳 東京創元社 昭和四十九年十二月二十日発行 40番

●これは昭和18年に発行された『アクセル』に付属していた「リラダン全集」刊行の告示チラシ。「譯者刊行の辞」には皇紀二千六〇〇年と記されている。ちなみにこの斎藤磯雄氏の文章がすごい。『「愚劣」が「叡智」を蹂躙し、「下賤」が高貴を陵辱し、「凡庸」が偉大を磔刑に處する暗澹たる世紀に在って……』。戦前に企図された斎藤磯雄氏個人訳全集の全貌を垣間見ることができるが、結局戦前に刊行されたのは『残酷物語』『新残酷物語』『アクセル』のみだったようだ。

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